|
三浦義村(みうらよしむら)は、三浦氏の当主義澄の嫡男。 母は伊東祐親の娘。 平家追討・奥州征伐に父とともに出陣して活躍した。 1199年(正治元年)の梶原景時の変では、景時に讒言された結城朝光から相談を受け、景時追放の中心的役割を果たした。 1205年(元久2年)の畠山重忠の乱では、北条時政の命により重忠の嫡男重保を討ち取り、乱後、無実の重忠を陥れた稲毛重成一族を誅殺した。 1213年(建暦3年)の和田合戦では、一族の和田義盛に起請文まで書いて味方することを約束していたというが、直前になって義盛を裏切り、その挙兵を北条義時に告げて、和田一族を滅亡に追い込んだ。 1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮で三代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺されるという大事件が起こると、北条義時の命により公暁を討伐。 実朝暗殺については、義村黒幕説がある。 1221年(承久3年)の承久の乱では、弟の胤義から「勅命にしたがって義時を追討するように」という書状を受け取ったが、それを義時に提出し、弟の反逆には同心しないことを伝えている。 その後、北条時房・北条泰時らとともに東海道の大将軍の一人として上洛。 胤義は東寺の門中に籠って幕府軍と戦ったが、西山の木嶋で自刃した。 1224年(貞応3年)6月13日、北条義時が死去。 伊賀光宗と義時の後妻伊賀の方(光宗の妹)が、政村(義時の五男、母は伊賀の方)を執権にし、娘婿の一条実雅を将軍に据えようという企てに義村も加担したが、北条政子に説得されて考え直したのだという。 1225年(嘉禄元年)、北条泰時が設置した評定衆に就任。 1239年(延応元年)12月5日、死去。 |
高望王流桓武平氏 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1194年(建久5年)、北条泰時の元服式で三浦義澄は孫娘を泰時の嫁とすることを約束。 1202年(建仁2年)に泰時は義村の娘と結婚するが、長男時氏が生まれた後に離婚している。 理由は不明。 |
北条泰時の元服式と正妻の矢部禅尼 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1213年(建暦3年)5月2日、北条義時打倒の挙兵をした和田義盛。 当初、義盛は武蔵横山党の援軍を待って5月3日に挙兵する予定だった。 当初の計画を変更した理由は、義村の裏切によって、和田軍の計画が事前に義時に洩れたからと考えるのが妥当なのかもしれない。 『古今著聞集』には、ある正月元旦の将軍御所で、義村の上席に千葉胤綱が着席した折、 義村が「下総の犬めは寝場所を知らぬな」 とつぶやくと、 胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」 とつぶやいたという話が載せられ、義村の裏切りを批判したものとして知られている。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 先祖の三浦為継は、源義家に従って奥州の清原武衡・家衡を征伐して以降、源氏からの恩恵を受けてきた。 だから、一族の義盛の勧めによって、先祖代々の主君に対して反乱を起こせば天罰が下ると考え、義盛へ味方することをやめたのだいう。 しかし、以前から三浦宗家でもない義盛が侍所別当として勢力を誇っていたことに不満を持っていたというのが真実なのかもしれない。 |
泉親衡の乱から和田義盛の挙兵まで〜和田合戦『吾妻鏡』〜 『吾妻鏡』が伝える和田合戦 挙兵を早めた和田義盛 (三浦義村の裏切りで計画が狂った和田合戦) |
公暁は、二代将軍源頼家の次男。 1219年(建保7年)正月27日、鶴岡八幡宮では、三代将軍源実朝の右大臣拝賀式が行われた。 式を終えた実朝が石段の上にさしかかると、突然公暁が襲いかかり、実朝を殺害。 実朝の首を取った公暁は、後見人の備中阿闍梨の雪ノ下北谷の家に行き、食事の間も実朝の首を放さなかったという。 そして、乳母子弥源太を三浦義村邸に遣わし、 「今、将軍の席が空いた。 次は自分が将軍となる順番だから、 早く方策を考えよ」 と指示。 しかし、義村は、すぐに屋敷に来るよう伝える一方で、北条義時に連絡をとり、義時から公暁を討つように命ぜられている。 そうとも知らずに山越えをして義村邸に向かった公暁は、義村に遣わされた長尾定景に討ち取られ、首は北条義時邸に運ばれた。 公暁がどこに葬られたのかは不明。 |
※ | 『吾妻鏡』によると、義村は右大臣拝賀式の場に姿を見せていない。 |
鶴岡八幡宮大石段と源実朝暗殺〜その時、北条義時は現場にいた!〜 |
『吾妻鏡』によると、公暁に殺害された源実朝は首が見つからないまま勝長寿院に葬られたのだという。 ただ、秦野市には実朝の首塚が残されている。 公暁が持ち去った実朝の首を義村の家臣・武晴常が拾い上げ、義村と仲が悪かった波多野忠綱を頼って運び込んだのだという。 |
源実朝の首と七騎谷の伝説 和田合戦の先陣を言い争った波多野忠綱と三浦義村 |
義村の弟胤義は、承久の乱の首謀者の一人。 北条泰時が宇治川を渡河し、北条時房が瀬田橋を突破して、朝廷軍を敗走させると、胤義は東寺の門中に籠って、同族の三浦・佐原の軍勢と戦った後、西山の木嶋(太秦)で自刃。 首は胤義の家来が太秦の自邸へ持って向かったが、兄の義村が捜し出して手に入れ、六波羅の泰時邸に送ったのだとか・・ 三浦義村の弟・胤義 |
中世の東寺は城郭化され、現在でも南大門や北大門の外側には堀の一部が残されている。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
伊賀氏の変は、二代執権北条義時の死後、伊賀光宗と義時の後妻伊賀の方が、伊賀の方の子政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍にしようと企てたとされている事件。 政村の烏帽子親だった義村も加担していたが、北条政子に諫められたのだという。 |
北条泰時の執権就任と伊賀氏の変と三浦義村 |
1239年(延応元年)2月22日、承久の乱で隠岐に流された後鳥羽法皇が崩御。 その年の12月の義村の急死と、翌年1月の北条時房の急死は、後鳥羽法皇の祟りと噂されたらしい。 承久の乱の際、義村と時房には義時追討の院宣が下されていた。 |
近殿神社は、義村を祭神とする社。 |
義村の墓の南にある福寿寺は、義村創建と伝えられる臨済宗建長寺派の寺院。 |
義村の死後に起こった宝治合戦で、子の泰村が北条時頼に敗れて三浦氏は滅亡する。 |
|