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1213年(建暦3年)5月2日、八田知重が和田義盛邸に軍勢が集まっているのを大江広元に報告。 知重は八田知家の子で、義盛邸の近くに屋敷があったのだという。 広元は来客中で宴を開いている最中だったが、一人その座を起ち御所へ走った。 和田義盛に味方するという起請文まで書いていたという三浦義村と弟の胤義は、義盛の挙兵に呼応して御所の北門を固めるはずだったが・・・ 「先祖の三浦為継は、八幡太郎義家に従い、奥州で武衡・家衡を征伐して以降、源氏から恩禄を賜ってきた。 一族の義盛に味方して、先祖代々の主君に矢を射れば天罰を免れることはできない」 という理由から義盛を裏切ることとし、北条義時に義盛の挙兵を伝えた。 義時は囲碁の最中だったが、義村の報告にも驚くことはなく、心を静めて目算を立て、御所へ向かっている。 御所では、義盛が挙兵する可能性を考えていたが、まさか今日の事とは思わず、警護の備えがされていなかったのだという。 広元と義時の報告を受けると、北条政子と将軍源実朝の正室坊門姫(西八条禅院)は北門から逃れ、鶴岡八幡宮の別当坊へ避難した。 |
和田義盛邸は、鶴岡八幡宮の三の鳥居の南西にあったのだといわれるが、正確な場所は不明。 |
現在の清泉小学校の周辺に大倉幕府(大倉御所)があった。 |
鶴岡八幡宮の裏山には、供僧の住坊・二十五坊と別当坊(長官の宿舎)があった。 |
〜御所襲撃〜 |
申の刻(午後4時頃)、和田義盛は150騎の兵を三手に分け、御所の南門・北条義時邸の西門・北門を襲撃。 さらに御所の南の大江広元邸を襲撃。 その後、政所付近で波多野忠綱・三浦義村らと戦い、酉の刻(午後6時頃)、御所へ乱入。 北条泰時・弟の朝時・足利義氏らが防ぐが、朝比奈義秀が総門を突破して南庭へ乱入し、火を放ったため、源実朝は大江広元・北条義時とともに源頼朝の法華堂へ避難した。 |
宝戒寺は、北条執権館跡に建てられた寺院。 |
かつて、ここには源頼朝の墳墓堂「法華堂」があった。 |
和田合戦の先陣を言い争った波多野忠綱と三浦義村 |
〜御所にあった四つの門〜 |
南門は、現在の金沢街道の源頼朝墓入り口付近にあった。 大江広元邸は、この門の南にあったのかと・・・。 |
北門は、源頼朝の法華堂付近にあった。 |
西門の西側には三浦義村邸があった(現在の横浜国立大学付属中学校付近)。 |
東門の東側に鎮座する荏柄天神社の前には、和田義盛の甥胤長の屋敷があった。 胤長は、和田合戦の原因となった泉親衡の謀反に加担して流罪となった。 屋敷は一時、親族に払い下げられたが、北条義時に追い出されてしまったのだという。 |
〜和田義盛の作戦〜 |
和田義盛が御所を襲撃した際、何故、南門だけを攻めたのか? それは、『吾妻鏡』にも記されているとおり、北門は三浦義村が固めるはずだったから。 そして、西門の西側は三浦義村邸だったから。 もし、三浦義村の裏切りがなければ、御所の門のうちの三つを固めることができ、将軍源実朝の身柄を確保に成功して、合戦を優位に進めることができたのかもしれない・・・ 参考までに、 『吾妻鏡』では、朝比奈義秀が御所に火を放ったことで源実朝が避難したとしているが、和田軍が御所に乱入したときには実朝は避難した後だったとういう説がある。 |
筋違橋では、幕府軍の足利義氏が朝比奈義秀と遭遇し、鎧袖を引きちぎられながら逃れたのだという。 |
挙兵を早めた和田義盛 (三浦義村の裏切りで計画が狂った和田合戦) |
〜由比ヶ浜に退いた和田軍〜 |
和田義盛が率いていたのは、一騎当千の武者ばかりで、日が暮れても、星が出る時になっても戦い続けいたが・・・ 3日の明け方には、力も矢も尽き、由比ヶ浜に兵を退くことに。 寅の刻(午前4時頃)、横山時兼が娘婿の波多野盛通・甥の横山五郎らを引き連れて腰越浦にまで進軍。 義盛は、時兼と3日を挙兵の日と決めていたのだという。 援軍を得た和田軍は勢いを取り戻すが・・・ 辰の刻(午前8時頃)になると曽我・中村・二宮・河村らが到着。 和田方か北条方のどちらに味方するか決心がつかず、武蔵大路や稲村ヶ崎に陣をとって合戦の行方を見守っていたが、法華堂から源実朝の御教書が届けられると北条方に参戦。 巳の刻(午前10時頃)には、北条義時と大江広元の連署による御教書が武蔵国をはじめとする近国に発せられ、逃亡者の掃討が命じられた。 そして、北条軍は大軍を由比ヶ浜に送り込んだ。 和田軍も反撃するが、若宮大路には北条泰時・北条時房、大町大路には足利義氏、名越には源頼茂、大倉郷には佐々木義清・結城朝光などが陣を張っていたため思いうようにはいかず、由比ヶ浜や若宮大路での合戦が続けられた。 しぶとく抵抗を続ける和田軍を前に北条軍は何度となく退くことがあったのだという。 そういう報告を北条泰時から受けた源実朝は、大江広元に戦勝の祈願書を書かせ、それに二首の和歌を書き添えて鶴岡八幡宮に奉納させている。 その頃、和田軍の土屋義清が甘縄から亀谷に入り、窟堂前を経て御所を目指すが、赤橋の傍らで流れ矢を受けて討死。 矢が北から飛んできたことから神が射た矢と謳歌され、討たれた義清は壽福寺に葬られたのだという。 |
かつての鶴岡八幡宮の太鼓橋は、朱塗りの橋だったことから赤橋と呼ばれていた。 この付近で討死した土屋義清は岡崎義実の子で、壽福寺の本願主だったのだという。 |
武田信光は、若宮大路の米町口(下の下馬付近))で朝比奈義秀と遭遇。 両者は睨み合って戦おうとしたが、信光の子信忠が割って入ったことで、義秀は、戦わずして走り去ったのだとか。 |
『吾妻鏡』の記録にはないが、若宮大路の琵琶橋付近では、八田知家の四男宍戸家政が朝比奈義秀と戦って討死したのだという。 |
土屋義清は鶴岡八幡宮の神矢に討たれた! 和田合戦で活躍した日光山の弁覚〜源実朝の護持僧〜 |
〜挙兵は5月3日の予定だった?〜 |
『吾妻鏡』によると、義盛は5月3日を挙兵の日と定めていた。 しかし、挙兵したのはその前日。 そのため、合戦を仕掛けたのは義時の方ではなかったのかという説もある。 また、御所の警備が手薄の間に源実朝の身柄を確保しようとしたためという説もある。 |
挙兵を早めた和田義盛 (三浦義村の裏切りで計画が狂った和田合戦) |
〜 滅 亡 〜 |
奮戦した和田軍だったが・・・ 酉の刻(午後6時頃)、和田義盛の四男義直が討死。 その後、悲嘆した和田義盛は、迷い歩いているところを討たれ、子息の義重、義信、秀盛らも討死し、二日間にわたって繰り広げられた激戦が終わった。 この合戦で猛威をふるった朝比奈義秀は安房国へ逃れ、和田常盛・山内政宣・岡崎実忠・横山時兼・古郡保忠・和田朝盛の大将軍6人も戦場を離れて逃げてしまったのだという。 朝比奈義秀のその後の消息は不明だが、古郡保忠・和田常盛・横山時兼は甲斐国で自殺。 岡崎実忠は誅殺され、山内政宣は山内経俊に捕えられた(その後誅殺されたか?)。 和田朝盛は運よく逃れ、のちの承久の乱では後鳥羽上皇方について戦っているが、1227年(嘉禄3年)6月14日に捕えられている。 合戦後、京都で和田の残党が騒動を起こすことを心配した源実朝は、大江広元と北条義時に命じて在京御家人の五条有範・佐々木広綱らに和田残党の討滅を命じる御教書を発出している。 |
※ | 和田常盛は、和田義盛の嫡男。 |
※ | 山内政宣は、岡崎氏の一族ともいわれる。 |
※ | 岡崎実忠は、佐奈田義忠の子。 |
※ | 横山時兼は、武蔵七党の一つ横山党の総帥。 |
※ | 古郡保忠は、横山党の武将。 |
※ | 和田朝盛は、和田常盛の子。 |
由比ヶ浜にある和田塚は、和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられている。 合戦後、固瀬(片瀬)で晒し首にされたのは234人にのぼったのだと伝えられている。 |
和田合戦の褒賞を固辞した北条泰時 (私は父義時の敵と戦ったまで) |
上総介の任官を望んでいた和田義盛 泉親衡の乱から和田義盛の挙兵まで〜和田合戦『吾妻鏡』〜 和田合戦の先陣を言い争った波多野忠綱と三浦義村 和田合戦で活躍した日光山の弁覚〜源実朝の護持僧〜 |
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