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「西御門」(にしみかど)は、法華堂跡や東御門までをも含む広い範囲での地名。 鎌倉幕府(大倉幕府)の西門があったことに由来している。 幕府には東西南北の門があった。 西御門は、大倉幕府と鶴岡八幡宮の間にあって、重臣三浦氏の館があった地域でもあり、かつては、7つの寺があったといわれている(現在は来迎寺と八雲神社があるのみ。)。 |
西御門には、鎌倉尼五山第一位の太平寺があった。 1556年(弘治2年)、安房の里見義弘が鎌倉に攻め入った際、住職の青岳尼が安房に渡ったため、北条氏康によって廃寺とされた。 仏殿が円覚寺に移築されている。 |
1371年(応永4年)の創建で、開山は臨済宗の高僧義堂周信、開基は宅間上杉家の能憲と伝えられている。 本尊の「地蔵菩薩」(鎌倉二十四地蔵)は宅間浄宏作とされ、現在は来迎寺に安置されている。 |
鎌倉公方・足利基氏の母の菩提所。開山は臨済宗の高僧義堂周信。 |
※ | 報恩寺と保寿院は、いずれも現在の第二中学校辺りがその跡地とされている。 |
太平寺の跡に、1642年(寛永19年)、高松寺が建立された。 開山は日隆。日蓮宗の尼寺。 高松寺の山門は、鎌倉山の「らい亭」に移築されている。 |
和田合戦 1213年(建暦3年)、源実朝は西御門に赴き、和田合戦で負傷した者と対面している(『吾妻鏡』)。 |
『吾妻鏡』が伝える和田合戦 和田合戦の先陣を言い争った波多野忠綱と三浦義村 |
宝治合戦 1247年(宝治元年)、西御門の三浦泰村邸が北条時頼によって攻められ焼失した(『吾妻鏡』)。 |
上杉禅秀の乱 1416年(応永23年)、上杉禅秀に加担した足利満隆・持仲が保寿院で挙兵した。 |
享徳の乱 1454年(享徳3年)、関東管領の上杉憲忠が鎌倉公方の足利成氏の西御門邸で暗殺された。 |
源頼朝の挙兵を援助した三浦氏は、鶴岡八幡宮と大倉幕府の間の重要地に屋敷を構えた。 横浜国大付属小中学校あたりとされ、義村、泰村が居住していたと考えられている。 |
東御門
南御門 北御門 |
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