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来迎寺(西御門)
=土紋装飾の如意輪観音=

編集:yoritomo-japan.com








来迎寺(西御門)


 1293円(永仁元年)の創建。

 藤沢の遊行寺末。

 如意輪観音は、鎌倉地方独特の「土紋装飾」という技法を施した像で、源頼朝の持仏堂(法華堂)にあったものと伝えられている。

 「地蔵菩薩像」は、宅間浄宏作と伝えられ、廃寺となった報恩寺の本尊だったもの(県文化財)。



開山 一向
本尊 阿弥陀如来


鎌倉観音巡礼第5番札所
(如意輪観音)

鎌倉地蔵巡礼第2番札所
(報恩寺(岩上)地蔵)

鎌倉十三仏第10番札所
(阿弥陀如来)


神仏分離と鶴岡八幡宮(okadoのブログ)





本尊「阿弥陀如来坐像」

 1712年(正徳2年)、鎌倉仏師三橋薩摩によって造立されたもので、鎌倉十三仏の第10番の札所。 





「地蔵菩薩坐像」
(県文化財)

 岩を模した台座の上に坐していることから「岩上地蔵」と呼ばれている。

 西御門にあった報恩寺の本尊で、1384年(永徳4年)、宅間浄宏によって造立されたことが判明している。

 特徴は、「禅宗の仏像」や「頂相」に流行った衣を八の字に開き、裾を台座から真下に垂らした形で「法衣垂下」と呼ばれる様式。

 報恩寺→太平寺法華堂を経て、来迎寺に移された。

 鎌倉二十四地蔵の第2番札所。 





如意輪観音
「如意輪観音半迦像」
(県文化財)

 「鎌倉で最も美しい仏像」とも言われている。

 もとは源頼朝法華堂に安置されていた像で、『吾妻鏡』に「北条政子が如意輪観音を念持仏としていた」という記録があることから、この像が政子の念持仏として信じられてきた。

 しかし、その様式からは、南北朝時代の作と考えられている。

 特徴は、衣文に施された「土紋装飾」で、鎌倉時代後期から室町時代にかけて流行った鎌倉独特の装飾方法。

 鎌倉三十三観音の第5番札所。 



☆長者の娘の伝説と胎内の遺骨☆

 伝説によると・・・

 遠い昔の天平の頃のある日、由比の長者染屋時忠の娘が遊んでいた浜で大鷲にさらわれ、その後死体となって発見された。

 嘆き悲しんだ長者は、供養にと娘の骨を如意輪観音の胎内に納め、西御門に如意輪観音堂を建てたのだという。

 来迎寺には、如意輪観音の胎内に納められていた遺骨が残されているらしいが、造立年からして染屋時忠の娘の伝説と結びつけるのは難しい。

 江戸初期の紀行文『金兼藁』には、西御門には光福寺という寺院があって、そこに置かれていた如意輪観音の胎内から、三歳くらいの子どもの遺骨や衣服、舎利、経巻が出てきたという記事が載せられていることから、来迎寺の如意輪観音は光福寺に置かれていあたものではないかとも考えられている。


 魔の淵のお地蔵さま 妙法寺の鷲塚、辻の薬師堂六国見山の稚児塚、多聞院の十一面観音 塔ノ辻にも鷲にさらわれた長者の娘の伝説が残されている。



☆土紋装飾とは?☆
 粘土や漆などを混ぜて型で抜き、刺繍の文様を立体的に表現する鎌倉独特の装飾方法。

 鎌倉に土紋装飾を施された仏像は七体あるといわれている。


リンクボタン土紋装飾の仏像


土紋が施された如意輪観音・・・西御門来迎寺(okadoのブログ)





「跋陀婆羅尊者像」(市重文)

 跋陀婆羅尊者は、水によって悟りを開いたと伝えられる羅漢。

 浴室の守本尊として祀られる(参考:相国寺の浴室)。

 禅宗では、浴室は僧堂、食堂とともに「三黙堂」と呼ばれている。

 もとは西御門にあった報恩寺に安置されていたもの考えられている。

 近年までは、建長寺広徳庵の自休和尚の肖像だと言われてきた。

 江ノ島の稚児ヶ淵には、自休に見初められた稚児の白菊が、断崖から身を投げ、自休もその後を追ったという伝説が残されている。

 (参考:かながわの景勝50選「江ノ島稚児ヶ淵」)。









〜来迎寺の開山〜

 来迎寺の開山は一向といわれているが、時宗開祖の一遍ともいわれてきた。

 実際にどちらであるのか、または、どちらでもないのかは明らかではないが、1293年(正応6年)、鎌倉に大地震が起こり、亡くなった村人の菩提を弔うために来迎寺が建てられたということは判明している。

 一遍と一向は、ともに各地を遊行し踊り念仏を修したことから、一向の「一向宗」と一遍の「時宗」が混同されるようになった。

 一向宗というと親鸞が開祖の浄土真宗もそう呼ばれているが、江戸時代に、一向の一向宗は時宗に統合され、一方、浄土真宗には一向宗の名が許されている。

 昭和に入って、宗教団体法が施行されたことにより、一向宗と時宗は別々のものとされ、多くの寺院が時宗から一向の母体である浄土宗へ帰属したということである。



一遍上人五輪塔
リンクボタン一遍上人五輪塔
(神戸市:真光寺)

 神戸市にある真光寺は、一遍が入滅した寺。

 一遍は、全国を遊行してまわり、1282年(弘安5年)には巨福呂坂から鎌倉に入ろうとするが、八代執権北条時宗に阻止されている。

 藤沢片瀬の一遍上人地蔵堂跡は、鎌倉に入れなかった一遍が念仏を行った地とされている。

 その後旅立った一遍は、1289年(正応2年)8月23日、摂津国兵庫津の観音堂(真光寺)で遷化。



一向の廟所
鎌倉観光一向の廟所
(米原市:蓮華寺)

 米原市にある蓮華寺は、一向が中興開山に迎えられた寺。

 一向は光明寺開山の然阿良忠の門弟で、寺号は良忠の佐助ヶ谷の蓮華寺からとったのだという。

 1333年(元弘3年)、足利高氏(尊氏)に六波羅探題を攻め落とされた北条仲時ら140余名が自刃している。





〜西御門にあった寺院と来迎寺〜

 来迎寺のある西御門という場所は、この辺りが大倉幕府の西門の前面にあたることから付けられた地名。

 西御門には、7つの寺があったといわれ、来迎寺裏手のテニスコートがある地には、鎌倉尼五山第一位の太平寺があった。

 また、臨済宗の高僧義堂周信の開山といわれる報恩寺と保寿院もあり、両寺院とも現在の第二中学校がその跡地とされている。

 報恩寺は、宅間上杉家の能憲によって建てられ、本尊の「地蔵菩薩」(鎌倉二十四地蔵)は宅間浄宏作とされ、現在は来迎寺に安置されている。

 保寿院は、足利基氏(初代鎌倉公方)の母の菩提所だった。



西御門の碑
リンクボタン西御門碑
鎌倉太平寺
鎌倉観光太平寺跡










来迎寺(西御門)
来迎寺

鎌倉市西御門1−11−1

鎌倉駅東口から徒歩20分


リンクボタン時宗総本山遊行寺(清浄光寺)

リンクボタン鎌倉の時宗の寺

リンクボタン太平寺跡



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