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一遍は鎌倉時代の僧で、鎌倉新仏教の一つ時宗の開祖。 1282年(弘安5年)3月1日、巨福呂坂から鎌倉に入ろうとするが、八代執権北条時宗に阻止されてしまう。 その晩は光照寺付近で野宿したと伝えられ、翌2日には「片瀬の館」で念仏を行っている。 片瀬の館がどこなのかは明らかではないが、この辺りに別邸を構えていた鎌倉御家人の一人の館と考えられている。 江ノ島道の一遍上人地蔵堂跡は、一遍が念仏を行った「片瀬の浜の地蔵堂」があった所とされ、『一遍聖絵』(国宝:『一遍上人絵伝』)には、巨福呂坂で時宗に鎌倉入りを阻止されたことや、片瀬での念仏の様子が描かれている。 地蔵堂の本尊だった地蔵菩薩像は、泉蔵寺に置かれている。 |
北条時宗に鎌倉入りを阻止される一遍一行。 |
一遍は4ヶ月間、片瀬の浜に滞在し念仏を続けた。 その盛況ぶりは「貴賤雨の如くに参詣し、道俗雲の如くに群集す」と表現されている。 「紫雲たちて花ふりはじめけり」という不思議な現象も起きたと記録されているが「花の事は花にとへ、紫雲の事は紫雲にとへ、一遍知らず」と答えたという。 それまで一箇所にとどまることなく歩き続けた一遍が、長期間にわたって片瀬の浜で布教を続けた背景には、北条朝時の養子公朝の存在があったのだという。 公朝は園城寺出身の高僧だった。 遊行の旅の中で一番長いものとなった片瀬の浜での布教を終えた一遍は、7月16日に京に向かって旅立ったといわれている。 |
一遍は、全国を遊行してまわり、民を「賦算」と「踊り念仏」で極楽浄土に導いた。 |
「賦算」は、六十万人の人々に配ることを目標としていたが、実際に配れたのは、二十五万一千人余だったといわれる。 |
「躍り念仏」は、尊敬する空也に倣ったものといわれている。 六波羅蜜寺の空也上人立像は、運慶の四男康勝の作(重要文化財)。 念仏を唱える空也の口から吐き出された六体の阿弥陀は、「南無阿弥陀仏」の六文字を表現している。 |
全国を遊行した一遍は、1289年(正応2年)8月23日、摂津国兵庫津の観音堂(真光寺)で遷化。 「遺体を野に捨てて獣に施せ」と遺言していたが、在地の信者により松の根元で荼毘に付され、廟が設けられたのだと伝えられている。 |
江ノ島には、島民を助けるために掘り当てたといわれる井戸が残されている。 |
江の島参詣道(遊行寺〜片瀬〜江の島) 一遍上人の島井戸〜江の島〜 |
鎌倉市片瀬3丁目 江ノ電「江ノ島駅」より徒歩5分 湘南モノレール「湘南江ノ島駅」より徒歩3分 |
時宗総本山・遊行寺の正式名称は「藤澤山無量光院清浄光寺」。 遊行上人の寺ということで「遊行寺」と呼ばれている。 |
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