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真光寺は、和田岬(輪田岬)に建てられた光明福寺が始まりとする。 1276年(建治2年)、時宗開祖の一遍が観音堂に住して中興。 全国を遊行した一遍は、1289年(正応2年)8月23日、この寺で遷化。 一遍没後、遊行二世の真教が伏見天皇より「真光寺」の寺名を賜り、播州国守護の赤松円心より寺領が寄進されて繁栄。 南北朝期には、後醍醐天皇から「西月山」の山号が勅賜され、亀山天皇の皇子・尊観法親王が住持したことで念仏の大道場となった。 その後、再三の兵禍や火災に遭うがその都度再建されてきた。 1945年(昭和20年)の空襲で全山消失。 現在の本堂は1962年(昭和37年)に再建されたもの。 1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災では御廟所・観音堂・鐘楼が倒壊したが、1998年(平成10年)に復興された。 |
一遍は、踊りながら念仏と唱える「踊り念仏」を行い、「決定往生六十万人」と書いた紙の札(賦算札)を配って全国を歩いた僧。 |
「賦算」は、六十万人の人々に配ることを目標としていたが、実際に配れたのは、二十五万一千人余だったといわれる。 |
「躍り念仏」は、尊敬する空也に倣ったものといわれている。 六波羅蜜寺の空也上人立像は、運慶の四男康勝の作(重要文化財)。 念仏を唱える空也の口から吐き出された六体の阿弥陀は、「南無阿弥陀仏」の六文字を表現している。 |
1282年(弘安5年)には、鎌倉での布教を試みるが、鎌倉幕府八代執権・北条時宗に阻止されたため、片瀬に入って約4ヶ月間の布教を行ったのだという。 |
時宗時宗総本山の遊行寺(清浄光寺)は、遊行四世の呑海が開いた寺。 「遊行上人のおわす寺」ということから「遊行寺」の名で親しまれてきた。 呑海は、伏見天皇より「真光寺」の寺名を賜った真教の弟子。 真光寺に住持した尊観法親王は、遊行寺十二世となっている。 |
一遍は、「遺体を野に捨てて獣に施せ」と遺言していたのだという。 しかし、在地の信者により松の根元で荼毘に付され、廟が設けられたのだと伝えられている。 |
『遊行縁起』(重要文化財)には、観音堂で多くの人に見守られながら生涯を終えた一遍が描かれている。 |
観音堂は、観音菩薩と弁財天を祀る堂。 観音像は、漁師が輪田岬の海底で霊光を放っているの見つけて引き上げたものなのだとか。 |
平安時代、和田岬には平清盛が修築した大輪田泊があった。 真光寺には、清盛が安芸の厳島神社を勧請した真野弁財天が祀られていたのだという。 清盛塚は、真光寺の西にある清盛の供養塔。 |
平清盛が弁財天を勧請した際、僧がこの井戸の水でお茶をたてて献上したのだという。 |
兵庫県神戸市兵庫区松原通1-1-62 JR神戸線「兵庫駅」下車、徒歩10分 |
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