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六波羅蜜寺は、醍醐天皇第二皇子光勝空也上人によって951年(天暦5年)に開かれた西光寺を前身としている。 真言宗智山派の寺院で山号は補陀洛山。 平安時代の後期になると、平忠盛以来、清盛・重盛と続く平家一門の屋敷が建ち並び、その数は5200余りに及んだという。 1183年(寿永2年)7月25日、没落した平家一門が都を落ちる際には、その兵火で諸堂が焼失し本堂のみが残された。 源頼朝は、その再興修復を助勢している。 その後、相次ぐ兵火によって焼失を繰り返した六波羅蜜寺は、その都度修復され、江戸時代まではいくつもの伽藍が連なっていたというが、明治の神仏分離によって荒廃。 現在の本堂は1363年(貞治2年)の修営(重要文化財)。 鎌倉時代には、この付近に六波羅探題が置かれていた。 秘仏本尊の十一面観音は国宝で、12年に一度開帳されている(辰年の開帳)。 西国三十三箇所第十七番札所。 「重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば」 御詠歌は、西国三十三所中興の祖といわれる花山法皇が巡礼の際に木の短冊にしたためた和歌なのだという。 |
六波羅蜜寺付近は、鳥辺野(とりべの)という葬送地の入口に位置していたことから、「六道の辻」と呼ばれ、近くには、あの世とこの世の境目に建つという「六道珍皇寺」や六道の辻地蔵尊と呼ばれる「西福寺」がある。 |
1000年(長保2年)12月16日に崩御した一条天皇の皇后・藤原定子の遺体は、23日に六波羅蜜寺へ運ばれ、27日に鳥戸野陵へ葬られている。 |
空也上人立像は、運慶の四男康勝の作(重要文化財)。 念仏を唱える空也の口から吐き出された六体の阿弥陀は、「南無阿弥陀仏」の六文字を表現している。 |
運慶坐像 鎌倉時代 重要文化財 |
湛慶坐像 鎌倉時代 重要文化財 |
※ | 湛慶は運慶の長男。 三十三間堂の本尊千手観音坐像は湛慶の作。 |
「夢見地蔵」と呼ばれる運慶作と伝えられる仏像で、運慶一族の菩提寺だった地蔵十輪院から移されたとものとされている。 鎌倉時代:重要文化財。 鎌倉:浄智寺の地蔵菩薩坐像は、この像に姿形が似ているといわれている。 |
定朝の作と伝えられ、左手に毛髪を握っているため「鬘掛地蔵」と呼ばれている。 平安時代:重要文化財。 伝説によると・・・ 地蔵菩薩を信心していた貧しい女が母の葬儀も出せないでいると、見知らぬ僧が現れ、ねんごろに回向し、墓に葬ってくれた。 貧しい女は、お布施のかわりに母の鬘を渡した。 忌が明けて地蔵菩薩を参拝すると、左手にはあの時の僧に渡した鬘が握られていたという。 |
阿古屋塚 |
平清盛塚 |
阿古屋塚は、悪七兵衛と呼ばれた平景清の思い人で、五条坂の白拍子だった阿古屋の菩提を弔うためのもの。 平治の乱で源義朝を破って武家政権樹立の基礎を築きあげた平清盛は、九条河原の平盛国邸(清盛の側近)で亡くなった。 |
弁財天堂 (六波羅弁財天) |
銭洗い弁財天 |
六波羅弁財天は、日本最古という「都七福神」の一つ。 他の神は、ゑびす(ゑびす神社)、大黒天(松ヶ崎大黒天)、毘沙門天(東寺)、福禄寿(赤山禅院)、寿老神(革堂)、布袋尊(萬福寺) |
平安時代後期、六波羅には、六波羅館が置かれ平清盛の泉殿を中心に一族の邸宅が建ち並んでいた。 平家の都落ち後、六波羅の地は源頼朝に与えられて京都守護が置かれ、承久の乱後には六波羅探題が置かれた。 |
建仁寺勅使門 |
東福寺六波羅門 |
建仁寺の勅使門は、平教盛の館門(平重盛の館門とも)を移築したものと伝えられる。 東福寺の六波羅門は、六波羅探題にあったものが移築されたと伝えられている。 |
京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町 京阪「清水五条駅」から徒歩5分 JR京都駅から市内循環バス「清水道」下車徒歩5分。 |
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