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清水寺の参道清水坂を下った「六道の辻」にある珍皇寺(ちんのうじ)は、「六道詣」で知られる臨済宗建仁寺派の寺で、「六道さん」の名で親しまれている。 弘法大師(空海)の師慶俊僧都の開基と伝わるが定かではない。 盂蘭盆前の8月7日から10日までの「六道詣」は、「迎え鐘」をうって精霊を迎える行事で、京都の盆の始まりはこの「迎え鐘」で始まるのだという。 珍皇寺の門前は、昔から「六道の辻」と呼ばれ、冥界へ通じていると伝えられてきた。 小野篁は、そこを通ってこの世とあの世を往復していたという。 境内には篁が冥界への行き来に使用したという井戸が残されている。 珍皇寺は、鎌倉時代まで東寺に属していたというが、室町時代に入ると建仁寺の聞渓良聡が再興して臨済宗に改められたという(建仁寺の塔頭)。 |
本尊: | 薬師如来坐像 (平安時代・重要文化財) |
※ | 特別拝観時と六道まいりのときに開帳される。 |
平安時代は「風葬」が一般的だったことから、疫病が流行った際には、この辺り一帯におびただしい数の死体が捨てられていた。 その供養のために開かれたのが空也の西光寺(現在の六波羅蜜寺)。 六道の辻地蔵尊(西福寺)には多くの石地蔵が置かれている。 「六道の辻」は、鳥辺野(とりべの)という葬送地の入口だったことから付けられた呼び名。 当時は、野ざらしにされる死体が多かったことから、化野(あだしの)・蓮台野(れんだいの)・鳥辺野・華頂(かちょう)・西院(さいいん)が葬送地として制定された。 制定したのは小野篁。 小野篁は、平安時代の公卿で、小野小町の祖父にあたる人物。 |
化野念仏寺 |
千本ゑんま堂 |
三大埋葬地の一つ化野には化野念仏寺、蓮台野には千本ゑんま堂がある。 |
愛宕の寺も打ち過ぎぬ 六道の辻とかや 実に恐ろしやこの道は 冥途に通ふなるものを 心ぼそ鳥辺山 煙の末も うす霞む・・・ 六道珍皇寺は、愛宕寺(おたぎでら)、愛宕念仏寺、鳥戸寺などと呼ばれていた。 嵯峨にある愛宕念仏寺は、六道珍皇寺の近くにあったらしい。 |
「迎え鐘」は、鐘楼の穴から出された引き綱を引っ張って撞く。 その音は十万億土に響き渡り、その音をたよりに精霊がこの世へ蘇ってくるのだという。 伝説によれば・・・ 初代の鐘は、慶俊僧都が鋳させたもので、慶俊は「三年間地中に埋めておくように」と伝えて唐へ渡っていった。 しかし、寺僧たちは我慢できず一年半で掘り出してしまう。 唐にいた慶俊は、ある時、東方より響き渡る鐘の音を聞いた。 それは紛れもなく慶俊が鋳させた鐘の音だった。 その時慶俊は「三年埋めておけば撞かずに鳴ったものを・・・」と嘆じたという。 |
弘法大師像、小野篁が彫ったという閻魔大王像、等身大の鬼を従えた小野篁像などが安置されている。 |
矢田地蔵の鐘は、死者の霊を迷わず冥土へ送るための「送り鐘」。 |
小野篁は、この井戸から冥界へ行って(死の六道)、嵯峨にあったという福正寺の井戸から帰ってきたのだという(生の六道)。 |
清凉寺の塔頭薬師寺には、福正寺にあった小野篁の作と伝えられる生六道地蔵菩薩や小野篁像などが安置されている。 |
紫野西御所田町の紫式部の墓の隣に小野篁の墓がある。 |
小野篁神社は、小野篁を祀る社。 小野氏は近江国滋賀郡小野村を本拠とした豪族で、篁は小野妹子の子孫。 |
幽霊子育飴には、若い女が死んだあとに墓の中で出産し、生まれた子を育てるために夜な夜な飴を買いに来たという伝説が残されている。 六道の辻の西福寺の辻向かいには、今でも「幽霊子育飴」を売る店がある。 |
六道珍皇寺は、紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏の母・桐壺更衣と、妻のひとりだった紫の上の葬儀が行われた寺のモデルとなったらしい。 |
京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町595 京阪電車「東山五条」下車 徒歩20分 京都市バス「清水道バス停」下車 徒歩5分 |
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