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嵯峨薬師寺は、819年(弘仁9年)、嵯峨天皇の勅願寺として開かれた寺。 本尊は、疫病退散のため嵯峨天皇の命により弘法大師空海が神護寺で刻んだという薬心経秘鍵薬師如来像。 その後、火災に遭ったが鎌倉幕府五代執権の北条時頼が復興させている。 現在の本堂は、江戸時代の火災後に大覚寺の宮尊性親王によって再建されもの。 大覚寺の下にあったが、明治に入ると浄土宗知恩院派に属し、清凉寺の塔頭となっている。 |
空海の薬師如来は、開眼の供養をすると疫病がたちまちに鎮まったという伝説の尊像。 秘仏とされ、厨子の開閉は大覚寺によって行われていたのだという。 |
阿弥陀三尊像は、清凉寺に七日間籠った際に恵心僧都源信が造立したもの。 満願の日の暁、源信の前に現れた「船に乗った阿弥陀三尊」を彫ったのだという。 |
かつて、嵯峨薬師寺付近には福正寺という寺があった。 この世とあの世を往復していたという小野篁は、六道珍皇寺の井戸から冥界へ行って(死の六道)、福正寺の井戸から帰ってきたのだという(生の六道)。 福正寺は明治に入って廃寺となり、1880年(明治13年)、嵯峨薬師寺に合併され、井戸は残されていない。 しかし、小野篁の作と伝えられる生六道地蔵菩薩や小野篁像などが薬師寺に移されている。 |
千本ゑんま堂 |
小野篁の墓 |
千本ゑんま堂は、小野篁が建立したゑんま堂を始まりとする。 紫野西御所田町の紫式部の墓の隣に小野篁の墓がある。 『源氏物語』を書いた紫式部は、世の風紀を乱したとして地獄に落とされたため、閻魔大王と交流していたという小野篁の墓を紫式部の墓の横に移したのだとか。 |
小野篁神社は、小野篁を祀る社。 小野氏は近江国滋賀郡小野村を本拠とした豪族で、篁は小野妹子の子孫。 |
清凉寺は、東大寺の「然(ちょうねん)が中国の宋より持ち帰った釈迦如来(国宝)を本尊とする(三国伝来の釈迦如来)。 全国にこの像の模刻が広まり、清凉寺式釈迦如来として鎌倉の極楽寺や横浜の称名寺にも伝えられ、東京目黒の大円寺の清凉寺式釈迦如来は最古と言われる。 |
京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46 ・JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」より徒歩15分 ・京福電鉄「嵐山駅」より徒歩10分 ・市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩2分 |
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