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恵心堂(恵心院)は、天元年間(978−983)、藤原兼家(道長の父)が慈恵大師良源(元三大師)の協力を得て建立した寺。 ここで、良源の弟子で恵心僧都と呼ばれた源信が修行をしたことから、浄土信仰発祥の地といわれる。 |
源信は、942年(天慶5年)に大和国で誕生し、9歳の時に比叡山中興の祖・慈恵大師良源(元三大師)に入門。 956年(天暦10年)、15歳の時に法華八講の講師の一人に選ばれ、村上天皇から下賜された褒美の品を母に送ると、源信を諫める和歌とともに送った品が返されてきたのだという。 「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」 その後、名声・名誉を捨てることとした源信は、横川に隠棲し念仏三昧の道を選んだのだという。 そして、『往生要集』や『二十五三昧式』などを著し、日本浄土教の基礎を築いた。 1017年(寛仁元年)6月10日示寂(76歳)。 阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら亡くなったのだという。 |
元三大師堂は、源信の師・慈恵大師良源の住坊跡。 |
金戒光明寺の阿弥陀堂に安置されている阿弥陀如来は、源信の最終作なのだという。 |
源信に帰依していた藤原道長は、出家後、法成寺を建立。 源信と同じように阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして最期を遂げたのだという。 |
藤原道長の出家と最期 |
大原三千院の往生極楽院は、源信が父母の菩提のため、姉の安養尼とともに建立したと伝えられている。 |
浮御堂は、源信が衆生済度と琵琶湖の湖上安全を祈願して創建。 |
紫式部の『源氏物語』の最後の十帖「宇治十帖」手習の巻に登場する横川の僧都は、恵心僧都源信のことなのだという。 |
「宇治十帖」〜手習の巻〜では、 浮舟を救った比叡山の横川の僧都の母・大尼君が 「たけふ、ちちりちちり、たりたむな」 と口ずさんでいる。 「たけふ」は、紫式部が娘時代に暮らしたことがある越前国武生のこと。 紫式部の越前下向を記念して整備された紫式部公園には、金色の紫式部像が置かれている。 |
宇治の恵心院は、恵心僧都源信が再興した寺。 |
比叡山山内は東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)という地域があり、そこにある堂塔の総称を延暦寺という。 |
延暦寺は天台宗の総本山。 |
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