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~出家~ |
1018年((寛仁2年)、三后のすべてを我が娘で占める偉業を達成し、栄華を極めて望月の歌を詠んだ藤原道長だったが・・・ この頃から健康状態が悪化。 1019年(寛仁3年)2月には眼病が重くなり、胸病の発作に襲われるようになる。 そして3月、自邸の土御門殿で出家。 戒師は、比叡山の院源。 法名は行願(のちに行覚)。 道長は、「隠遁生活に入るわけではない。月に五六度は帝の顔を拝したい」と述べていたようだが・・・ 見舞いに訪れた藤原実資は「容顔老僧の如し」と伝えている。 太皇太后・彰子、皇太后・妍子、中宮・威子、嫡男・頼通らも見舞っている。 |
※ | 院源は一条天皇・三条天皇の出家の際にも戒師を務めている。 |
土御門殿は、現在の京都御所の東側にあった道長の邸宅。 出家した道長は、4月1日に彰子らに衣更えのための衣裳を贈っている。 その時の彰子と交わしたのが「唐衣の歌」。 |
藤原道長の歌~出家した道長と彰子と和泉式部の歌~ |
道長の最初の法名は行願。 藤原実資の『小右記』には、「革聖行円が建てた寺と同じ名」と記されている。 その寺は行願寺。 6月19日、道長は法名を行覚に改めるが、行願寺と同じ名という指摘があって改めたのだといわれている。 関係があるかは不明だが、1012年(寛弘9年)正月、道長の三男顕信は、行願寺の行円のもとで剃髪している。 |
~法成寺建立~ |
9月には東大寺で改めて受戒し、興福寺・春日社をはじめとする大和国の寺社を参詣。 翌年、浄土往生を願って土御門殿の東側に建立を開始した九体阿弥陀堂(無量寿院)が完成。 さらに、金堂・五大堂・正妻・源倫子の願による西北院などが次々に建立され、摂関時代の最大の寺院として豪壮を極め、1022年(治安2年)、寺号を法成寺とする。 |
平安時代、浄土信仰の広まりで阿弥陀堂の建立が盛んに行われた。 その始まりは慈覚大師(円仁)が延暦寺に建立した常行堂。 道長が帰依した源信が修行をした横川の恵心堂は、浄土信仰発祥の地といわれる。 貴族階級が競うように阿弥陀堂を建立した中で、道長の法成寺は最大規模のものだった。 |
道長の子頼通が建立した宇治の平等院は、法成寺を参考にしたのだという。 鳳凰堂の阿弥陀如来は、法成寺の造仏を手掛けた定朝の作で、確認されている唯一の遺作。 |
三千院の阿弥陀堂は、恵心僧都源信が父母の菩提のため、姉の安養尼とともに建立したと伝えられている。 |
中尊寺の金色堂は、藤原清衡が1124年(天治元年)に創建した阿弥陀堂。 |
~最期~ |
晩年を法成寺で暮らしていた道長は・・・ 1025年(万寿2年)に三女の寛子・六女の嬉子を失い、1027年(万寿4年)には三男の顕信と次女の妍子を失った。 そして・・・ 1027年(万寿4年)10月28日、妍子の四十九日法要が営まれた夜から床に伏した。 病状は日ごとに悪化。 11月25日には阿弥陀堂に移り、12月2日には医師の但波忠明が呼ばれたが、翌日には重態となる。 12月4日、九体の阿弥陀仏の手に糸を通し、中尊仏から道長の手に渡され、多くの僧たちの読経の中で薨去(62歳)。 |
藤原顕光と藤原延子の怨霊に祟られた藤原道長の娘たち |
道長は、晩年を法成寺で暮らしたことから「御堂殿」と呼ばれ、のちに「御堂関白」と称されたが、関白にはなっていない。 |
関白にならなかった御堂関白・藤原道長~内覧と摂政と関白~ |
12月4日、道長の遺体は棺に移され、陰陽師の占いによって7日夜に法成寺から鳥辺野に移され、葬送の儀が行われた。 導師は天台座主の院源。 東大寺・興福寺・東寺・西寺・四天王寺などの大寺の僧が来集している。 儀式が終わると荼毘に付され、遺骨は翌朝に木幡の宇治陵に送られて埋葬された。 浄妙寺は、宇治陵に藤原道長が建立した寺。 室町時代に廃絶し、道長の埋葬地も不明となっている。 |
1007年(寛弘4年)8月11日、金峯山詣を行った藤原道長は、自ら書写した法華経などを金峯山(山上の蔵王堂)に埋納。 金峯神社蔵の「金銅藤原道長経筒」の願文によると・・・ 極楽往生を願い、未来に弥勒菩薩が現われた時には、成仏の確約を受けることを願っていたらしい。 |
金銅藤原道長経筒~御嶽詣と弥勒信仰と道長の願文~ |
藤原道長が出家した1019年(寛仁3年)、古代日本最大の外敵侵略だったという刀伊の入寇が起こる。 博多を襲った刀伊は藤原隆家らの活躍によって撃退されるが、功のあった九州の武士団への恩賞は十分なものではなかったと伝えられている。 それは道長亡き後の武士の台頭へと繋がり、摂関政治の終わりへと繋がっていく。 |
刀伊の入寇~日本国を守った藤原隆家~ 刀伊の入寇の恩賞と武士の台頭 |
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