紫式部「光る君へ」


藤原頼通
藤原道長の長男


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 藤原頼通(ふじわらのよりみち)は、摂政太政大臣・藤原道長の長男。

 母は、源雅信の娘・源倫子

 992年(正暦3年)誕生。





~最年少で摂政に~

 1004年(長保6年)、13歳で春日祭の勅使となる。

 1006年(寛弘3年)、15歳で公卿に列し、1013年(長和2年)には権大納言に。

 そして、1017年(寛仁元年)には、道長から後一条天皇の摂政の地位を譲られた(26歳)。



春日大社
リンクボタン春日大社

 春日大社は藤原氏の氏神。

 春日祭は、賀茂神社の賀茂祭(葵祭)・石清水八幡宮の石清水祭とともに三大勅祭の一つ数えられる。

 頼通が勅使となった当日の『御堂関白記』には、道長が藤原公任花山法皇との和歌のやり取りを行ったことなどが記されている。





~正室は隆姫女王~

 頼通の正室は具平親王の長女・隆姫女王。

 1015年(長和4年)、三条天皇から第二皇女の禔子内親王の降嫁を持ちかけられた頼通は、隆姫を悲しませたくないと悩んで重病になってしまったのだとか。


リンクボタン藤原頼通と禔子内親王の縁談~隆姫を悲しませたくない頼通は~





~道長の婚姻策と摂関~

 藤原氏の政治は、天皇や皇太子に娘を嫁がせ、生まれた子が天皇になったときに摂政あるいは関白として実権を握るというもの。

 道長から摂政の地位を譲られた頼通は、後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇が在位した半世紀もの間、摂政・関白であり続けた。

 これは、道長の婚姻政策が成功したことを意味する。

 後一条天皇と後朱雀天皇の母は、道長の長女で一条天皇の中宮だった藤原彰子

 後冷泉天皇は、後朱雀天皇の第一皇子で、母は道長の六女・藤原嬉子





~藤原道隆の怨霊~

東三条院址
リンクボタン東三条院址


 東三条院(東三条殿)は、摂関家の邸宅。

 伯父の藤原道隆はここで薨去。

 道隆没後、政治の中枢に立ったのは、嫡子の伊周との争いに勝った父の道長

 そのため、道長や頼通は道隆の怨霊を恐れたのだという。

 1029年(長元2年)、東三条殿で病に倒れた頼通は、道隆の怨霊が病を惹き起こしたと告げられ、東三条殿から退避したのだとか。





~関寺の霊牛~

長安寺
リンクボタン長安寺
逢坂関
リンクボタン逢坂の関


 長安寺逢坂の関付近にあったという関寺の霊跡。

 1025年(万寿2年)、清水寺から遣わされた関寺の霊牛と結縁するため、藤原道長源倫子・頼通・藤原教通が参拝。

 そのため、逢坂の関は関寺詣で大賑わいとなったのだという。

 長安寺の牛塔は頼通が建てた。





~桜の名所白河にあった別邸~

白河院・法勝寺址
リンクボタン白河殿
(白河院址・法勝寺址)

 桜の名所・白河の地には、藤原良房が別荘として建てた白河殿があった。

 摂関家嫡流が継承し、藤原道長や頼通も所有。

 姉・彰子の住まいにもなっている。

 道長の時代には、藤原済時藤原公任も白河に別業を設け「小白河殿」と呼ばれていたらしい。





~東国の反乱~

 1027年(万寿4年)12月4日、道長が薨去。

 その翌年に起こったのが、房総平氏の平忠常の反乱 (平忠常の乱)。

 忠常は、坂東八平氏の祖・平良文の孫。

 母は平将門の娘。

 乱を鎮圧したのは、河内源氏の祖・源頼信

 頼信が東国支配の礎を築いたことで、武士が本格的に表舞台に登場することとなる。

 1051年(永承6年)には、陸奥国で勢力を広げていた安倍頼良と陸奥守・藤原登任の間で戦いが起こる(前九年の役)。

 10年以上も続く戦乱となったが、鎮圧したのは後任の陸奥守として派遣された源頼義とその子・義家だった。



宇治平等院
リンクボタン平等院

 頼通は、反乱や疫病などで世の中が荒れる中の1052年(永承7年)に平等院を建立。

 平等院を別荘として政治を行ったことから、宇治殿と呼ばれるようになる。





~頼通の婚姻策~

 1037年(長元10年)、敦康親王の娘で養女としていた藤原嫄子を後朱雀天皇に入内させるが、皇子誕生はないまま1039年(長暦3年)に崩御。

 1051年(永承6年)には、長女の藤原寛子を後冷泉天皇の皇后とし、皇子誕生に望みを繋いだが、寛子が子を産むことはなかった。

 頼通の弟・教通は、1047年(永承2年)に三女・歓子を後冷泉天皇に入内させ、2年後に皇子が誕生したようだが、即日没してしまったのだという。





~石清水・住吉・天王寺参詣~

石清水八幡宮
リンクボタン石清水八幡宮

 1031年(長元4年)7月25日、頼通は姉の彰子とともに石清水八幡宮を参詣。


住吉大社
リンクボタン住吉大社
四天王寺
リンクボタン四天王寺

 27日には摂津国に入り、翌日、住吉大社四天王寺を参詣している。









~摂関継承に関する道長の遺言~

 1061年(康平4年)、70歳で朝廷の最高職である太政大臣となるが、翌年には父道長に倣って辞している。

 1067年(治暦3年)には、関白を辞し、六男で右大臣の師実に関白職を譲ろうとしていたが・・・

 姉の上東門院(藤原彰子)が道長の遺言を理由に許さなかったため実現しなかった。

 道長は、

 「頼通が摂関を辞した後は教通が継ぎ、教通は一代限りで、次代は頼通の子に継承させる」

 と遺言していたらしい。





~後三条天皇の親政~

 1068年(治暦4年)、後冷泉天皇が崩御すると、藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位。

 東宮(皇太子)時代に頼通・教通兄弟に疎んじられていた後三条天皇は、摂関家の政権独占を打破するため、積極的な天皇親政を行った。

 1069年(延久元年)に荘園整理令を発し、頼通の時代に発生した摂関家領と称する違法荘園を整理。

 また、記録荘園券契所を設置し、不正荘園の調査・摘発、書類不備の荘園の没収などを行った。

 頼通の荘園も没収されているが、中核だった平等院領については手をつけることができなかったのだとか。





~薨去~

 1072年(延久4年)4月、頼通が出家し、同年12月には後三条天皇が白河天皇に譲位。

 後三条天皇は、上皇となって院政を行おうとしていたともいわれるが、翌年5月に崩御。

 さらにその翌年、1074年(延久6年)2月2日、頼通も薨去(83歳)。

 平等院で亡くなり、その近辺で火葬され、宇治陵に葬られたと推測されている。

 同年(承保元年)10月3日には姉の彰子が、翌年9月25日には弟の教通も亡くなり・・・

 1086年(応徳3年)には、白河天皇が堀河天皇に譲位。

 摂関時代が終わり、院政の時代が始まることとなる。




高陽院跡
リンクボタン高陽院跡

 高陽院は、藤原頼通の邸宅。

 紫式部『源氏物語』に登場する光源氏の邸宅・六条院と同じような四町を占める広大な寝殿造の邸宅だったのだという。



宇治平等院
リンクボタン平等院鳳凰堂

 平安時代、浄土信仰の広まりで阿弥陀堂の建立が盛んに行われた。

 その中でも道長法成寺は最大規模のものだった。

 平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)は、法成寺の阿弥陀堂を参考にしたのだという。



浄妙寺想像図
リンクボタン浄妙寺
(宇治陵)

 浄妙寺は、宇治木幡の宇治陵に藤原道長が建立した寺。

 宇治陵には道長・彰子・頼通らが埋葬されたが、室町時代に浄妙寺が廃絶したため、埋葬地は不明となっている。


リンクボタン藤原道長の出家と最期










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