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源雅信(みなもとのまさのぶ)は、宇多天皇の第八皇子・敦実親王の三男。 母は藤原時平の娘。 920年(延喜20年)誕生。 雅信王は、936年(承平6年)、臣籍降下して源氏姓を賜り「源雅信」と称する。 |
宇多天皇 |
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※ | 源頼朝に仕えた佐々木四兄弟(定綱・経高・盛綱・高綱)は、雅信の子孫。 |
円融天皇の時代に信任を得て急速に昇進し、977年(貞元2年)、右大臣となった。 翌年には左大臣となる。 円融天皇は、太政大臣・藤原頼忠と右大臣・藤原兼家を牽制するため、雅信を太政官の事実上の最高位である左大臣に任じたのだといわれている。 |
984年(永観2年)、円融天皇が譲位し、花山天皇が即位。 雅信は、娘の倫子を花山天皇の皇后にしようと考えていたが・・・ 花山天皇は、兼家の謀により僅か2年で出家して退位(寛和の変)。 兼家の娘・詮子が産んだ一条天皇が即位し、兼家が摂政となる。 その後、娘の倫子が兼家の五男・道長に求婚されるが、雅信は・・・ 摂関家の子ではあるものの道長は五男。 出世の望みの薄い道長へ嫁がせるより、一条天皇に入内させることを考え、道長の求婚を断ろうとしていたのだが・・・ 正室・藤原穆子は、「一条天皇は倫子の14歳年下で、年齢的に不釣り合い」として、強引に道長を婿にすることにしてしまったのだとか。 993年(正暦4年)7月29日、雅信は道長の出世を見ないまま薨御(74歳)。 |
雅信は、一条天皇の摂政として権勢をふるっていた藤原兼家を牽制できる唯一の人物だった。 |
※ | 倫子と道長の結婚は、兼家と雅信の緊張緩和につながったのだという。 |
紫式部は「源倫子にも仕えていた」という説 藤原道長と源倫子~倫子の母藤原穆子は道長の才能を見抜いていた!~ |
雅信は、祖父の宇多天皇・父の敦実親王ゆかりの仁和寺に葬られた。 |
土御門殿は、雅信が建設した邸宅。 雅信の死後、道長が継承した。 雅信邸に出仕していた歌人の赤染衛門は、倫子と娘の彰子に仕えた。 赤染衛門は、紫式部や和泉式部は同僚で、藤原定子に仕えた清少納言とも付き合いがあったのだという。 |
紫式部は「源倫子にも仕えていた」という説 |
一条天皇のもとでは、雅信が左大臣、弟の重信が右大臣を務めた。 雅信が亡くなると重信は左大臣となり、居貞親王(のち三条天皇)の東宮傅も兼ねていたが・・・ 995年(暦6年)5月8日、薨去。 |
寂源(源時叙)は、正室の藤原穆子が産んだ子。 987年(天延元年)頃に出家。 兄の源時通も出家していたことから、赤染衛門が作者ともいわれる『栄花物語』には憤る雅信の姿が描かれている。 寂源は出家後、比叡山に登って修行し、大原の地で勝林院を再興。 赤染衛門との交流があり、道長も崇敬していたのだという。 |
沙沙貴神社は、雅信を祖とする近江源氏・佐々木氏の氏神。 権殿には雅信も祀られている。 |
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