紫式部「光る君へ」


紫式部は「源倫子にも仕えていた」という説


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 紫式部は、1005年(寛弘2年)頃に一条天皇の中宮・藤原彰子の女房として出仕したとするのが通説だが・・・

 実はそれ以前に、彰子の母・源倫子に仕えていたとする説がある。

 倫子は987年(永延元年)に藤原道長と結婚するが、その際に紫式部が倫子付の女房として出仕した可能性があるのだという。





~源倫子と紫式部は「はとこ」~


藤原定方

朝忠

穆子

倫子
  ↓

為時

紫式部


 源倫子紫式部は、藤原定方の曾孫(再従姉妹(はとこ)。





~式部という名~

 「紫式部」という名は女房となったときに付けられたもの。

 「式部」は、父の藤原為時が式部丞だったことによるというのが通説。

 当初は「藤式部」と呼ばれていたが『源氏物語』を書いたことで「紫式部」と呼ばれるようになったともいわれている。

 通常、女房の名は父や兄あるいは夫の官職に因んで付けられていたが、為時が式部丞だったのは984年(永観2年)のこと。

 為時は、996年(長徳2年)に越前守となっているので、これ以前に「式部」という名が付けられたことになる。

 1005年(寛弘2年)に藤原彰子の女房として初めて出仕したとするならば別の名が付けられたはずだが・・・

 987年(永延元年)に源倫子の女房として仕えていたとするなら「式部」という名に矛盾は生じない。



紫式部公園
リンクボタン紫式部公園
(越前市)

 996年(長徳2年)、紫式部は越前守に叙任された父の藤原為時に同行して越前国へ下向。

 紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園で、平安朝式庭園が再現されている。





~道長と倫子に信頼されていた~

 一般的に伝えられている紫式部は・・・

 996年(長徳2年)、越前守に叙任された父の藤原為時に同行して越前国へ下向。

 約2年を越前で過ごした後、為時を残して帰京し、998年(長徳4年)頃、藤原宣孝と結婚。

 しかし、1001(長保3年)には宣孝が死去して未亡人となる。

 その後に書き始めた『源氏物語』が評判となり、藤原道長の要請によって、1005年(寛弘2年)から藤原彰子に仕えるようになったのだとされている。

 夫・宣孝の死後、道長の信頼を得たことになるが・・・

 それ以前に源倫子に仕えていたことがあるとするならば、すでに信頼関係は出来上がっていたことになる。 



リンクボタン紫式部の歌~一重山吹を贈ってもらったときの歌~




(参考)

紫式部
リンクボタン菊の着せ綿

 源倫子から特別な扱いをされていたと思われる紫式部は・・・

 藤原彰子の出産が間近となった1008年(寛弘5年)9月9日には倫子から「菊の着せ綿」を贈られている。





~源倫子と紫式部の邸宅~


京都御苑:土御門第跡
リンクボタン土御門殿跡
(京都御苑)

 土御門殿は、藤原道長源倫子の父・源雅信の死後に継承した邸宅。

 一条天皇の中宮・藤原彰子は、この邸宅で敦成親王(のちの後一条天皇)と敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産している。



京都:蘆山寺
リンクボタン廬山寺
(紫式部邸跡)

 紫式部の邸宅は、土御門殿と東京極大路を挟んだ筋向いにあったとされ、蘆山寺が建つ地にあったと考えられている。



リンクボタン藤原彰子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~










紫式部


紫式部と越前国


源氏物語 光源氏


紫式部の京都 平安宮~源氏物語ゆかりの地~


琵琶湖で紫式部・源氏物語 源氏物語~須磨・明石~


宇治十帖~紫式部『源氏物語』~ 源融・藤原実方ゆかりの陸奥国


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藤原道長


藤原彰子



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