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藤原穆子(ふじわらのぼくし・あつこ)は、藤原道長の岳父・源雅信の正妻。 父は中納言・藤原朝忠。 大河ドラマ「光る君へ」では藤原穆子(ふじわらのむつこ)という名で登場予定。 |
藤原冬嗣 |
良門 |
高藤 |
定方 |
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勧修寺は、醍醐天皇が母藤原胤子の菩提を弔うために建てた寺。 胤子の父・藤原高藤と母・宮道列子は紫式部の先祖。 藤原宣孝は紫式部の夫。 『源氏物語』に登場する光源氏と明石の君の恋の話は、身分の低い列子と貴公子・高藤の恋の話がモデルであるとされる。 |
娘の源倫子が藤原兼家の五男・道長に求婚された際、夫の雅信は倫子を一条天皇に入内させようと考えていたようだが・・・ 穆子は、「一条天皇は倫子の14歳年下で、年齢的に不釣り合い」として、強引に道長を婿にすることにしてしまったのだとか。 天皇に入内するよりも摂関家の子である道長の方が期待できると考えてのことらしい。 993年(正暦4年)、雅信は道長の出世を見ずに病死したが・・・ 穆子の読みは的中し、995年(長徳元年)には、道長の兄道隆と道兼が相次いで死去。 道長は、道隆の嫡男伊周が争うこととなるが、一条天皇の生母詮子(道長の姉)の働きもあって道長は右大臣となり、氏の長者となる。 999年(長保元年)には、倫子が産んだ彰子が一条天皇に入内し、翌年には中宮となった。 穆子に頭が上がらなかったという道長は、1001年(長保3年)、倫子とともに70歳を祝う祈祷を盛大に営んでいる。 夫雅信の死後は、しばしば観音寺に籠っていたという穆子は、1016年(長和元年)、86歳で死去。 兼家の次男・藤原道綱の妻も穆子の娘。 |
藤原道長と源倫子~倫子の母藤原穆子は道長の才能を見抜いていた!~ |
土御門殿は、雅信が建設した邸宅。 雅信の死後、道長が継承した。 雅信邸に出仕していた歌人の赤染衛門は、倫子と娘の彰子に仕えた。 赤染衛門は、紫式部や和泉式部は同僚で、藤原定子に仕えた清少納言とも付き合いがあったのだという。 |
穆子の子・寂源は出家後、比叡山に登って修行し、大原の地で勝林院を再興。 赤染衛門との交流があり、道長も崇敬していたのだという。 |
紫式部は「源倫子にも仕えていた」という説 |
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