|
藤原兼家は右大臣・藤原師輔の三男。 母は信濃守藤原経邦の娘・盛子。 929年(延長7年)誕生。 |
藤原忠平 |
藤原師輔 |
↓
|
↓
|
↓
|
↓
|
960年(天徳4年)に父が死去。 兼家は、跡を継いだ長兄の伊尹から厚遇され、968年(安和元年)に長女の超子を冷泉天皇に入内させ・・・ 972年(天禄3年)には、正三位大納言となり、さらに右近衛大将・按察使を兼ねる。 次兄の兼通より早い出世だった。 しかし、同年に伊尹が死去すると、兼通が関白に就任。 兼通は、円融天皇に天皇の生母・安子の 「関白は兄弟の順によるべし」 という書付けを見せたのだという。 安子は、兼通・兼家の姉。 翌年、兼通は長女の媓子を入内させ中宮にしている。 977年(貞元2年)、重病となり死期が迫った兼通は、従兄の頼忠に関白を譲り、兼家を治部卿に左遷し、程なく薨去。 不遇の時を過ごした兼家だったが・・・ 翌978(天元元年)には、頼忠の勧めもあって右大臣となり、次女の詮子を円融天皇に入内させた。 980年(天元3年)、詮子は懐仁親王(のちの一条天皇)を産んでいる。 |
※ | 冷泉天皇と円融天皇は兼家の姉・安子が生母。 |
※ | 969年(安和2年)、冷泉天皇は弟の円融天皇に譲位している。 |
※ | 979年(天元2年)、従兄の頼忠は次女の遵子を入内させている。 |
藤原兼通と藤原兼家~兄兼通に左遷された弟兼家~ |
比叡山の横川にある元三大師堂は、慈恵大師良源(元三大師)の住坊跡。 良源は十八代天台座主で、延暦寺中興の祖と呼ばれる。 良源の延暦寺中興に協力したのが兼家の父・師輔。 949年(天暦3年)、師輔の父・忠平が没すると、良源は300日間にわたる大護摩を修するとともに、村上天皇の皇子誕生の祈祷も修したのだという。 翌年、憲平親王(のちの冷泉天皇)が誕生。 母は、師輔の長女・安子。 |
天元年間(978-983)、兼家は比叡山に登って良源を訪ね、父にならって一院を建立したい旨を告げて、その協力を得て恵心堂(恵心院)を建立。 ここで修行した良源の弟子・源信は恵心僧都と呼ばれている。 源信は、紫式部の『源氏物語』に登場する横川の僧都のモデルなのだとか・・・ |
次兄・兼通の死で復権した兼家だったが、982年(天元5年)、円融天皇は頼忠の次女・遵子を中宮とする。 腹を立てた兼通は、詮子と懐仁親王を東三条殿に連れ帰って籠り、しばらく参内もしなかったようだが・・・ 984年(永観2年)、円融天皇から師貞親王に譲位し、懐仁親王を東宮(皇太子)とする考えでいることを聞かされる。 師貞親王は、冷泉天皇の第一皇子で長兄・伊尹の長女・懐子が生母。 懐仁親王は、詮子が生母。 こうして、同年、花山天皇(師貞親王)が即位して、懐仁親王が東宮に立てられた。 これにより、伊尹の五男で花山天皇の外叔父・藤原義懐と花山天皇の乳母子・藤原惟成が権勢を奮うようになる。 しかし、985年( 寛和元年)、花山天皇は寵愛していた女御の藤原忯子(兼家の異母弟為光の娘)を亡くし、出家を考えはじめた。 早く懐仁親王を皇位につけたい兼家は、蔵人として花山天皇に仕えていた三男・道兼に出家を勧めさせる。 そして、986年( 寛和2年)、道兼は花山天皇を山科の元慶寺で出家させた(寛和の変)。 権勢を奮っていた義懐・惟成も出家して失脚。 懐仁親王が即位して一条天皇が誕生。 兼家は摂政となり、東宮には冷泉天皇の第二皇子・居貞親王(のちの三条天皇)が立てられた。 居貞親王の生母は、兼家の長女・超子。 |
寛和の変で花山天皇が出家した元慶寺は、868年(貞観10年)、藤原高子の発願により遍昭が開いた寺院。 |
花山天皇の退位を知っていた安倍晴明~寛和の変~ |
源俊賢~藤原道長に仕えた公卿・一条朝の四納言~ |
花山朝の政策~花山天皇と義懐・惟成・頼忠・兼家~ |
藤原忯子の懐妊と死~花山天皇は?父藤原為光は?~ |
『扶桑略記』や『愚管抄』によると、厳久という僧も寛和の変に大きく関わっている。 厳久は、懐仁親王の母・藤原詮子に従属していた僧なのだとか。 |
寛和の変の黒幕は…懐仁親王の母・藤原詮子か?厳久とは? |
花山天皇が東宮(皇太子)の時から教育係として仕えていた紫式部の父・藤原為時は、寛和の変によって官職のない「散位」の時代を十数ほど過ごすこととなる。 |
花山天皇と藤原為時~師貞親王の教育係と藤原兼家・藤原道兼~ |
寛和の変の翌年、五男の道長が源倫子と結婚。 倫子は源雅信の娘。 雅信は結婚に反対だったが、道長の才を見抜いた雅信の正妻・藤原穆子が強引に結婚させたのだという。 雅信は、一条天皇の摂政として権勢をふるっていた兼家を牽制できる唯一の人物だった。 道長と倫子の結婚は、兼家と雅信の緊張緩和につながったのだという。 |
藤原道長と源倫子~倫子の母藤原穆子は道長の才能を見抜いていた!~ |
東三条院(東三条殿)は、摂関家の邸宅。 ここで、兼家の長女・超子は三条天皇を、次女・詮子は一条天皇を産んでいる。 兼家は邸宅の一部を内裏の清涼殿に模して建て替えたため、非難もされたのだという。 |
清涼殿跡 (平安宮) |
清涼殿 (京都御所) |
兼家が模したのは平安宮の清涼殿。 京都御所の清涼殿は、1855年(安政2年)に平安時代の建築様式で造営。 |
堀河院(堀河殿)は、兼家の兄・兼通が所有した邸宅。 円融天皇は、内裏が焼失した際、堀河殿を里内裏とした。 遠ざけていた兼家の邸宅・東三条殿を里内裏とはしなかった・・・ |
一条天皇を即位させ摂政となった兼家だが、上官には前関白で太政大臣の頼忠いた。 さらに円融法皇から信頼を得ていた左大臣の源雅信がいた。 兼家が考えたことは、准三宮となり右大臣を辞すこと。 准三宮は、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者のこと。 これにより、兼家は全ての大臣の上に立つこととなり、摂関は大臣を兼職するという従来の慣例を破って、摂政の力が強大となる道を開いた。 989年(永祚元年)には、長男・道隆を内大臣に任命し、同年、頼忠が薨去すると太政大臣に就任。 翌年には、一条天皇の元服により関白となったが、三日後に発病し、関白の地位を道隆に譲って出家。 990年(永祚2年)7月2日、薨去(享年62)。 その後、摂関は兼家の子孫が独占。 そして、五男・道長の時に全盛を迎える。 |
藤原兼家の葬送 摂政・関白と摂関政治(藤原氏の政治) |
兼家 |
↓
|
↓
|
↓
|
兼家が子らに「藤原公任の影を踏むこともできない」と話すと、道長は「面を踏んでやる」と言い放ったのだとか。 |
面を踏む~才能あふれる公任と道隆・道兼・道長の三兄弟~ |
花山天皇にふきかけられた肝試しでは道長だけが・・・ |
肝試し~臆病者の道隆・道兼と沈着冷静な道長~ |
兼家は死後、宇治木幡の宇治陵に葬られた。 浄妙寺は、宇治陵に藤原道長が建立した寺。 室町時代に廃絶し、兼家や道長、彰子の埋葬地も不明。 |
藤原道長の出家と最期 |
兼家は、病気平癒を祈願して別邸の二条第に法興院を建てた。 法雲寺は、その跡地に建てられた寺院。 |
春日大社は藤原氏の氏神。 989年(永祚元年)、兼家は一条天皇の春日行幸を実現させた。 |
大原野神社は、春日大社を勧請して創建された社で、藤原氏は女子が中宮や皇后になると行列を整えて参拝することを通例としていた。 |
吉田神社は、平安京の守護神として藤原山蔭が春日大社を勧請して創建した社。 兼家の正妻は山蔭の孫の時姫で、次女の詮子は時姫が産んだ子。 詮子が産んだ一条天皇が即位すると大原野神社と並んで崇敬されるようになる。 道長の法成寺と吉田神社を崇めることは興福寺と春日大社を崇めるのと同じともいわれたらしい。 |
法性寺は、兼家の祖父・藤原忠平が創建した藤原氏の氏寺。 兼家は、980年(天元3年)に死去した正妻・時姫の法要を法性寺で盛大に営んだのだという。 |
藤原道綱は兼家の次男といわれる。 道綱の母は『蜻蛉日記』に、兼家との結婚生活のことや、正室の時姫をライバルとして描いた。 |
藤原時姫と藤原道綱母~蜻蛉日記:兼家の愛人と和歌~ 賀茂祭の連歌対決~蜻蛉日記:藤原時姫と藤原道綱母~ 藤原道綱母の歌~嘆きつつひとり寝る夜 夫兼家への皮肉の歌~ |
唐崎神社は日吉大社の摂社。 祓いの霊場で、兼家の訪れが途絶えた藤原道綱の母は、気晴らしのために唐崎の祓に出かけている。 |
兼家と仲違いした藤原道綱の母は石山寺に参籠。 兼家が石山寺に参って関係を修復したのだとか。 ただ兼家は物忌中だったため、門前に停めた車から降りず、子の道綱が言葉を伝えたのだとか。 |
物忌み~源氏物語にも描かれた陰陽道信仰~ 清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~ |
東山区の大将軍神社は、土御門殿があった地との伝承があり、藤原兼家が合祀されている。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|