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平安時代、病気になったり災難にあったりするのは、物の怪の仕業と信じられ、物の怪に悩まされた者は、家などに籠って一定期間禁欲生活をした。 これは陰陽道信仰に基づくもので、「物忌み」(ものいみ)という風習。 「物忌み」は、時代によってその意味や内容が異なるようだが、平安中期は「一定期間引き篭もること(謹慎生活)」だったらしい。 「一定期間」、陰陽師の占いによって決まったのだという。 『古今著聞集』によると・・・ 陰陽師・安倍晴明は、藤原道長が物忌みで引き篭もっているとき、占いによって贈られてきた瓜に毒が入っていることを見抜いたのだという。 |
瓜に毒があることを占った安倍晴明~道長の毒瓜説話:古今著聞集~ |
陰陽道では、桃は魔除、厄除けの果物といわれている。 安倍晴明を祀る晴明神社の「厄除桃」は、撫でることで厄を桃に移すことができるのだという。 |
一定期間引き篭もる謹慎生活は、「凶の日」や「凶の兆しがあったとき」、「穢れに触れたとき」などに行われた。 平安時代の貴族たちは、不安なことがあると陰陽師に相談して、定められた期間、謹慎生活をしたらしい。 物忌の日には、宮中でも個人でも桃や柳の木を削って「物忌」と書いて御簾などに掲げたのだという。 「物忌」は「鬼王」の名で、「物忌」の札が掲げてあると他の邪鬼が退散するという信仰があったらしい。 祇園祭や賀茂祭でも「物忌」の札を身につけたり、門に立てたりしていたのだとか。 |
方違え~方位神のいる方角を避ける陰陽道の信仰~ |
紫式部の『源氏物語』~帚木の巻~には、五月雨の一夜、光源氏や頭中将らが女性を品評する場面が描かれている(雨夜の品定め)。 この日は宮中の「物忌の日」。 宮中の御物忌のときには、帝は部屋に引き篭もり、貴族たちも宮中を退出することができなかった。 光源氏は桐壺帝の子。 「帚木の巻」は、宮中から退出できずに暇を持て余していた光源氏のもとに頭中将らが集まって女性談義に花を咲かせるという話。 |
『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱の母は、なかなか通って来ない夫のことで悩み、出家しようとして石山寺に参籠。 夫とは藤原兼家。 驚いた兼家は、石山寺に駆け付けるが、物忌中だったため車からは降りず、子の道綱が言葉を伝えさせたのだとか。 物忌中は外出禁止。 しかも神社仏閣は神聖な地なので、最も行ってはならない場所。 |
石山寺は紫式部が『源氏物語』を書き始めた寺として知られている。 平安時代は石山詣が盛んに行われた。 |
晴明神社は、花山天皇・一条天皇・藤原道長に信頼された陰陽師・安倍晴明を祀る社。 1007年(寛弘4年)、晴明の偉業を讃えるため一条天皇が創建。 |
上賀茂神社の玉橋のしたを流れるのは御物忌川(おものいかわ)。 |
貴船神社の奥宮への参道に架かるのは思ひ川橋。 下を流れる思ひ川は、御物忌川と呼ばれていたが、和泉式部が貴船神社で夫との仲を祈願したことから、いつしか「思ひ川」と呼ばれるようになったのだとか。 |
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