|
晴明神社は、平安時代に活躍した陰陽師安倍晴明の屋敷跡に建てられた社。 1005年(寛弘2年)9月26日、晴明が亡くなると、一条天皇はその偉業を讃え、1007年(寛弘4年)に晴明を祀る社を創建した。 晴明は、一条天皇や藤原道長の信頼を得て、占いや陰陽道の儀式を行い、一条天皇は、晴明の禊によって病が回復したのだと伝えられている。 当時の社地は、東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売という広大なものだったという。 その後、豊臣秀吉の都市整備や度重なる戦火などによって社地も縮小され、荒れ果てた状態が続いていたが、 1853年(嘉永6年)の「式年祭」以降、氏子が中心となって復興が進められ、1950年(昭和25年)には堀川通に面するよう境内地が拡張された。 2003年(平成15年)には、「御鎮座壱千年祭」が斎行され、社殿の修造等の境内整備が完了している。 |
安倍晴明御霊神 |
一条戻橋は、安倍晴明の屋敷近くの堀川に架けられた橋で、晴明と深い関わりがある橋。 晴明神社にはその縮小版が置かれ、欄干の柱は、平成7年に掛け替えられる以前のものが使用されている。 |
晴明は、式神に術を施して自在に操ったのだという。 |
豊臣秀吉が聚楽第を建てた頃、ここには千利休の屋敷があったのだという。 利休は、秀吉の怒りをかい、この地で切腹させられ、一条戻橋で梟首された。 大徳寺の三門に自身の像を安置したが原因の一つだったという。 |
五芒星(晴明紋)が描かれた井戸。 晴明が霊力によって湧き出させたと伝えられ、湧く水は「晴明水」と呼ばれ無病息災にご利益がある。 千利休もこの水を茶の湯として用い、豊臣秀吉もその茶を腹したという。 立春に上部を回転させ、その年の恵方に取水口を向けるのが慣わしとなっている。 |
古来、陰陽道では、桃は魔除、厄除けの果物といわれているという。 自身の厄をこの桃に撫で付けて厄を除く。 |
物忌み〜源氏物語にも描かれた陰陽道信仰〜 |
安倍晴明は平安時代の陰陽師。 平安以降、鎌倉時代から明治に至るまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。 陰陽師は、星の動きで吉凶を予測し、呪術をつかっての厄除けや怨霊を鎮める役職にあった。 晴明の念持仏だったという真如堂の不動明王には、横死した晴明を蘇らせたという伝説が残されている。 |
うなづきの弥陀と安倍晴明の不動明王〜真如堂〜 |
※ | 1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たして鎌倉に入った源頼朝は、仮の御所として安倍晴明の護符が貼られた建物を移築させたという(参考:大倉幕府跡)。 |
日 |
月 |
南に「日」、北に「月」を乗せた石柱は、「陰陽」を表し、石柱は四神門(しじんもん)の門柱として使われていたもの。 石柱には、「明治37年9月晴明公九百年祭紀念」と彫られている。 |
晴明は、1005年(寛弘2年)9月26日に85歳で没したといわれ、嵯峨に葬られたのだと伝えられている。 墓所では、命日には嵯峨墓所祭が斎行されている。 |
京都市上京区堀川通一条上ル806 地下鉄「烏丸今出川駅」下車 徒歩12分 市バス「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩2分 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|