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1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れ、伊豆国の蛭ヶ小島に流された源頼朝は、その後、約20年間を伊豆国で過ごしました。 その間、伊東祐親の三女八重姫との恋や、北条時政の娘政子との結婚、長女大姫の誕生がありました。 そして・・・ 源氏再興の挙兵を果たす時がやってきます。 |
平治の乱後、平清盛は義妹滋子を後白河法皇の妃とし、滋子(建春門院)が生んだ憲仁親王を皇位につけます(高倉天皇)。 さらに、娘徳子を高倉天皇に入内させて天皇の外祖父となるなど、平氏(平家)は興隆を極め、平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめた時代を築いていました。 |
それまで平氏は、後白河院の近臣としてその権力拡大を成し遂げ、後白河院も平氏の軍事力を利用して反院政派を抑えてきました。 しかし、平氏の独裁的な傾向が強まるにつれ、後白河院との対立が表面化し、平氏政権が孤立するようになっていきます。 それを裏付けるような事件が1177年(治承元年)6月1日に起こります。 清盛は、突然、院の勢力の中心だった西光らを平氏討伐の謀議をしたとして逮捕していますが、この事件をきっかけに比叡山延暦寺をはじめとする反平氏勢力の動きが活発になっていきました。 この事件は「鹿ヶ谷事件」と呼ばれていますが、西光らの謀議については、その真実性が疑問視されています。 このようにして徐々に平氏討伐の気運が高まる中の1179年(治承3年)11月14日、清盛は、関白藤原基房をはじめとする公卿を解官し、天台座主には親平氏派の明雲を立て、20日には、後白河法皇も鳥羽殿に幽閉するというクーデターを敢行しました。 このクーデター後、京中での反平氏勢力は一時鎮まりますが、貴族化してしまった平氏に対する不満は地方の在地武士にも拡がっていました。 そして、翌1180年(治承4年)の以仁王と源頼政の挙兵へと繋がっていきます。 |
1180年(治承4年)、以仁王が源頼政の勧めによって、平氏追討の令旨を全国の源氏に発しました。 『吾妻鏡』によれば、4月9日、日頃、平氏打倒を企てていた源頼政が息子仲綱とともに三条高倉の以仁王のもとへ行き、諸国源氏を催して平氏を討滅するための令旨を賜わります。 そして、伊豆国の北条館にいた源頼朝のところには4月27日に届いています。 届けたのは頼朝の叔父源行家だったと伝えられています。 令旨を発した以仁王は、源頼政とともに自らも挙兵しましたが、準備不足のうちに平氏方に企てが露見し、5月26日、宇治平等院の戦いに敗れ、南山城の加幡河原で討たれてしまいました。 |
※ | 『玉葉』(養和元年9月7日条)によれば、以仁王の令旨は、延暦寺衆徒の発案によるものだったといいます。 |
以仁王の令旨と源頼朝 以仁王が発した平家打倒の令旨 |
以仁王と源頼政が宇治平等院の戦いで敗死したことは、すぐに伊豆国の源頼朝にも伝えられたと考えられますが・・・ 『吾妻鏡』によると、6月19日、三善康信からの使者によって以仁王の挙兵と敗死の件と、平氏が全国の源氏追討を企てていることが報告されています。 また「奥州へ逃れるように」とも伝えられたといいますが、頼朝は、6月24日、源氏再興の挙兵を決意し、源家累代の家人を招集するため、安達盛長と小中太光家を使いに出しています。 |
※ | この間の6月2日、平清盛は福原遷都を敢行している。 |
毘沙門堂 (伊豆の国市) |
伊豆滝山不動 (伊豆の国市) |
毘沙門堂は、頼朝に挙兵を勧めたという文覚ゆかりの堂。 滝山不動明王は、頼朝が祈願したことから旗上不動とも呼ばれています。 |
6月27日、大番役で京都にいた三浦義澄と千葉胤頼が、その帰路、北条館を訪れています。 この時に挙兵の密談が行われたと考えられ、『吾妻鏡』の記事からわかることは、頼朝が相模国や下総国の大武士団と連絡していたことと、東国武士の多くが反平氏に傾いていたということです。 |
衣笠城址 (三浦氏の本拠) |
亥鼻城址 (千葉氏の本拠) |
三浦義澄は相模国三浦半島を領していた三浦義明の嫡男、千葉胤頼は下総国を領していた千葉常胤の六男。 |
源頼朝は、北条政子と結婚すると北条時政の館に住んでいたと考えられています。 |
8月2日、以仁王と源頼政の挙兵によって、京へ上っていた大庭景親らの武将が相模国に戻ります。 そのため、頼朝の行動も火急を要するようになり、8月4日には伊豆国目代の山木兼隆を最初の敵と定めています。 目代を討つということは国家権力に対する反乱を意味します。 頼朝は、この決定以前、すでに密偵として藤原邦通を山木館へ送り込み、絵図を作成させていました。 そして、8月6日には、挙兵の日を8月17日と決定しています。 その時頼朝は、工藤茂光・土肥実平・岡崎義実・宇佐見祐茂・天野遠景・佐々木盛綱・加藤景廉などの武将を一人一人部屋に呼んで丁寧に言葉をかけたといいます。 |
※ | 山木兼隆は、父和泉守信兼の訴えによって伊豆国の山木郷に配流されていた罪人。 伊豆国の知行国主は源頼政から子の仲綱へと引き継がれていましたが、頼政が以仁王と挙兵したため、平時忠がそれに代わり、一族の時兼が国主となり、その目代に任じられたのが山木兼隆でした。 |
挙兵の日とした8月17日は、源頼朝が崇敬していた三嶋大社の例祭の日。 祭の雑踏を利用して山木館を襲撃しようとしたのだと伝えられています。 山木館襲撃 |
三嶋大社 (三島市) |
山木兼隆墓 (伊豆の国市) |
『吾妻鏡』によれば、山木兼隆を討ち取ったのは、佐々木盛綱と加藤景廉。 目代の兼隆を討ち取ったことで平氏の連絡網が遮断されました。 |
山木兼隆を討ち取った頼朝は、8月20日、相模国の土肥郷へ進軍し、8月23日には石橋山に布陣しました。 しかし、頼朝の軍は300騎。 迎え撃つのは大庭景親軍3000騎と伊東祐親軍300騎。 大敗した頼朝は、土肥の椙山に逃れています。 相模進軍 それぞれの石橋山:三浦一族 |
高源寺 (函南町) |
五所神社 (湯河原町) |
高源寺は、頼朝と文覚が源氏再興の密議をした寺と伝えられ、相模国へ進軍する頼朝軍の「軍勢ぞろいの地」とも伝えられています。 相模国へ進軍した頼朝は、石橋山へ出陣する前夜、五所神社の社前において戦勝祈願の護摩を焚いたと伝えられています。 |
石橋山で敗れた源頼朝が隠れ潜んだのが湯河原町に残されている「しとどの窟」と伝えられています。 『吾妻鏡』によれば、頼朝は挙兵の際、京都清水寺から下された聖観音像を髷の中に納めていたといいます。 それが、のちに建てる持仏堂(法華堂)の本尊となりますが、しとどの窟には観音像の伝説も残されています。 |
観音信者だった源頼朝〜守り本尊は清水寺から授かった正(聖)観音像〜 |
その後、頼朝は、箱根権現へ逃げ込みますが、再び土肥郷へ戻り、8月28日、真鶴から安房に向けて船出しました。 |
源頼朝船出の浜 (真鶴町) |
源頼朝上陸地 (鋸南町) |
源頼朝が真鶴岬から船出するまでを手引きしたのは、土肥実平でした。 実平の菩提寺成願寺(湯河原町)の七騎堂には、頼朝の像と、頼朝とともに船出したと伝えられている安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱の像が祀られています。 この間、北条政子は大姫とともに伊豆山権現の覚淵を頼って身を潜め、9月2日には秋戸郷へ逃れています。 |
七騎堂 (城願寺) |
伊豆山神社 (熱海市) |
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真鶴岬から安房国に渡った源頼朝は、上総広常や千葉常胤に参上を命じ、武田信義を味方に付けるべく北条時政を甲斐へ派遣しました。 武蔵国に入る頃になると、葛西清重、足立遠元、畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも参陣し、1180年(治承4年)10月6日、相模国へ入ります。 翌日には、先祖源頼義が創建した鶴岡若宮を遙拝し、父源義朝の旧跡(現在の壽福寺辺り)を見ています。 鎌倉を本拠としたのは、代々の源氏にゆかりがあるとともに三方を山で囲まれた天然の要害であったことが理由といわれていますが、それを進言したのは千葉常胤だったといわれています。 頼朝の鎌倉入りから間もなく、平維盛らが率いる平氏軍が駿河国に入りますが、富士川の戦いで平氏軍を破り、以後、東国の制圧に専念することとなります。 鎌倉入りを進言した千葉常胤 隅田川沿いの源頼朝伝説 鎌倉入り |
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