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加藤景廉(かとうかげかど)は伊豆国の牧之郷を治めた武将。 工藤茂光とともに源為朝を征伐したと伝えられている。 1180年(治承4年)8月17日の源頼朝の挙兵に従い、山木館襲撃では佐々木盛綱とともに伊豆国目代の山木兼隆を討ち取った。 8月24日の石橋山の戦いでの敗戦後、兄・光員と甲斐国に逃れるが、10月には武田信義らとともに駿河国に侵攻、鉢田の戦いで目代・橘遠茂を滅ぼした。 1185年(元暦2年)の平家追討では、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けている。 1193年(建久4年)11月28日、永福寺の供養の際に女性問題を起こした安田義資を誅殺。 翌年、義資の父義定も謀反の疑いで梟首されるが、一説によると景廉は追討使だったのだという。 頼朝の亡き後の1203年(建久3年)に起こった比企の乱では、比企能員を暗殺した仁田忠常を誅殺(仁田忠常の誅殺)。 1219年(建保7年)に将軍源実朝が暗殺されると、警備の最高責任者だった景廉は、その責任を負って出家し、覚蓮房妙法と号している。 1221年(承久3年)8月3日没、牧之郷に葬られた。 |
加藤景廉に長刀を授ける源頼朝(三嶋大社蔵)。 |
加藤景廉は、伊勢国出身の武将・加藤景員(かげかず)の子。 景員は、伊勢国で平氏の家人を殺害したことから、子光員、景廉とともに伊豆国へ逃れて工藤氏に身を寄せていた。 1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵すると父子ともに参じ、石橋山の戦いで頼朝が大敗すると景員は箱根山中で出家し、伊豆山権現に入っている。 源頼朝が帰依した伊豆山権現の覚淵や、信濃善光寺の阿弥陀如来を信仰して松田山(神奈川県松田町)に西明寺(現:最明寺(大井町))を建立した源延は景員の子だという。 |
現在、牧之郷に並んでいる五輪塔は、1958年(昭和33年)の狩野川台風によって流され、散乱していたものを住民によって集められたもの。 この地には、鎌倉時代から室町時代にかけて牧之郷の地頭を勤めた遠山氏の菩提寺金剛寺があったのだという。 遠山氏は加藤景廉を祖とする氏族。 江戸時代に活躍した「遠山の金さん」(遠山景元)は景廉の子孫。 |
北条政子の御教書と御成敗式目〜不易の法〜 |
1785年(天明5年)、墓の下からは、1326年(嘉暦元年)8月10日入寂した鎌倉極楽寺三世の善願(順忍)の蔵骨器(舎利瓶)が発見されている(修善寺郷土資料館に展示)。 銘文によると、順忍は加藤景廉の子孫。 極楽寺の「順忍舎利器」の銘文によると・・・ 1265(文永2年)11月27日誕生。 父は加藤景廉の四代孫加藤五郎、母は藤原氏。 1306年(徳治元年)に多宝寺の長老となり、1315年(正和4年)に極楽寺長老となった。 順忍の遺骨は、鎌倉の極楽寺・大和の額安寺、そして伊豆の金剛寺に分骨されたのだという。 |
伊豆市牧之郷90−2 伊豆箱根鉄道駿豆線「牧之郷」駅から徒歩 |
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