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浄光明寺の東は、多宝寺ヶ谷と呼ばれる谷戸。 かつては、ここに多宝寺があった。 極楽寺、称名寺(横浜市金沢区)と並ぶ鎌倉の真言律宗の主要な寺であったと考えられている。 多宝寺は、1262年(弘長2年)頃に創建されたらしく、いつまで存続していたかについては不明。 北条業時(重時の子)の招きで忍性が開山となったと伝えられている。 『新編鎌倉志』には、 「多宝寺ヶ谷という所あり、寺はなし」 と書かれており、江戸時代にはすでに詳細が不明となっていたらしい。 また、『新編相模国風土記稿』には、 「浄光明寺の支院に多宝寺と伝えるありしが、今廃して覚賢塔のみあり」 と記されている。 覚賢五輪塔の前面に分布する「やぐら」からは、応永年間(1368〜74年)の板碑が発見されていることから、室町時代の初めころまでは存続していたものと考えられる。 現在、寺址には日蓮宗の妙伝寺が建てられている。 |
多宝寺長老「覚賢」の五輪塔(国重文)。 長い間、忍性の五輪塔と考えられてきたが、1976年(昭和51年)の修復のときに、地輪の下方からみつかった銅製の骨壺に「多宝寺覚賢長老遺骨也嘉元4年3月16日入滅」と彫られていたことから、1306年(嘉元4年)に入滅した覚賢の五輪塔であることが判明した。 高さ約3メートルの巨大な安山岩製の五輪塔で、極楽寺の忍性墓にも匹敵するほどの大きさ。 覚賢が名僧であったことをしのばせるもので、多宝寺がいかに大きな寺であったかがわかる。 |
覚賢の五輪塔は、4月に行われる「鎌倉まつり」の期間中に公開されている。 |
2024年の覚賢塔の公開は 4月14日(日)〜21日(日) ※入口は浄光明寺 |
覚賢の五輪塔の下一帯が多宝寺址やぐら群。 鎌倉後期から室町初期にかけて、多宝寺関係の僧侶が葬られたと考えられている。 五輪塔、常滑壷、かわらけ、板碑などが出土し、貴重な資料とされている。 |
浄光明寺周辺には多宝寺の他に、東林寺があって律宗の寺として栄えていた。 また、海蔵寺手前の清涼寺ヶ谷には、西大寺流律宗の叡尊が滞在したという新清涼寺釈迦堂があったと伝えられている。 |
東林寺跡 |
新清涼寺跡 |
浄光明寺は、1251年(建長3年)、北条長時(のちの六代執権)によって再興された真言宗の寺。 足利尊氏・直義兄弟にゆかりのある寺でもある。 |
鎌倉市扇ガ谷2−12−1 0467(22)1359 鎌倉駅西口から徒歩15分 |
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