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極楽寺開山の忍性(良観房)は、1217年(建保5年)7月16日に大和国(奈良県)で誕生。 1232年(貞永元年)、信心深かった母の臨終を機に、大和国額安寺に入って出家し(16歳)、翌年東大寺戒壇院で受戒した。 1240年(延応2年)、24歳のときに叡尊を師と仰ぎ奈良西大寺に入って「律」を学ぶ。 このとき社会事業に力をそそぐ叡尊の影響を強く受けた。 1252年(建長4年)、36歳のときに西大寺流の律を広めるために坂東に向けて旅立ち、8月24日、鎌倉に入ったが定住地を得ることはできず、八田知家を祖とする小田氏の保護を得て常陸国の三村山清冷院に住み、布教活動を行った。 |
小田城は小田氏の居城。 城跡からは忍性が布教活動を行った三村山(宝篋山)が見える。 |
1261年(弘長元年)、鎌倉の新清涼寺釈迦堂に住み、翌1262年(弘長2年)、北条業時の招きによって多宝寺に住持。 1267年(文永4年)には極楽寺の開山に迎えられ(51歳)、以後37年間にわたって極楽寺で過し、律の布教と慈善救済事業に力をそそいだ。 |
※ | 忍性は、1261年(弘長2年)11月3日に没した北条重時の葬儀の導師を勤め、同年12月には大慈寺の別当を兼ねている。 |
※ | 忍性は、奈良東大寺の14代目の大勧進職にも任じられている。 |
忍性は、飢饉のときには粥を施し、さまざまな救済施設を建てた。 桑ヶ谷には、北条時宗の命により療養所(桑ヶ谷療養所)を建て、多くの者を救った。 忍性の救済事業は、人間に限られたものではなかった。 牛馬のための馬病舎も建てた。 境内には、忍性が粥を施したとする「極楽寺ノ井」や「千服茶臼」、「製薬鉢」が残されている。 土木事業にも力をそそぎ、鎌倉七口の一つ極楽寺切通を開いたのも忍性だと伝えられている。 |
桑ヶ谷療養所跡碑 |
四天王寺石鳥居 |
大阪の四天王寺の石鳥居は、1294年(永仁2年)に四天王寺の別当となった忍性が建て替えたもの。 当時、極楽への入り口として信仰されていた四天王寺の西門付近には病人や乞食など救済を求める多く者が集まっていたのだという。 忍性は、四天王寺の悲田院・敬田院を再興している。 |
悲田院は貧しい人や孤児を救うための施設で、泉涌寺の悲田院は平安京にあった悲田院の後身と伝えられる。 |
「極楽寺ノ井」は、山門前を掘り起こしたときに発見されたという井戸。 鎌倉石を八段積み上げたもので、開山忍性が粥を施すために使用した井戸と伝えられている。 |
1262年(弘長2年)、忍性の師叡尊が鎌倉に下り、新清涼寺釈迦堂に滞在。 叡尊の鎌倉下向によって、鎌倉での西大寺流律宗の基盤が固められたといわれている。 叡尊は金沢(北条)実時の要請によって鎌倉に下向。 横浜市金沢区の称名寺は、実時が叡尊の影響を受けたことによって真言律宗に改宗されたのだという。 1267年(文永4年)、忍性が極楽寺の開山に迎えらると、極楽寺が鎌倉での律宗の本拠となった。 |
清涼寺ヶ谷 |
称名寺 |
近年では、西大寺流律宗と長谷観音信仰の関係が指摘されていることから、長谷寺と忍性との関係が注目されているのだという。 |
石仏群 |
宝篋印塔 |
箱根町元箱根の精進池畔の石仏・石塔群には、忍性が深く関わっていると考えられている。 特に多田満仲のものと伝わる宝篋印塔は、忍性が率いていた石工によって造立されたもので、忍性が供養の導師を勤めたことが判明している。 |
1303年(嘉元元年)7月12日、極楽寺で示寂。 遺骨は額安寺(奈良)、竹林寺(奈良)と極楽寺の3ヶ所に埋葬されているという。 1328年(嘉暦3年)、後醍醐天皇より菩薩号を勅書をもって許された。 |
極楽寺では、毎年4月7日・8日に転法輪殿の本尊「清涼寺式釈迦如来立像」が特別開扉される。 「清涼寺式釈迦如来立像」は、京都清涼寺の「三国伝来の釈迦如来」を模刻したもの。 吉祥院内も公開され、叡尊像や忍性像の拝観もできる。 花まつりや忍性の五輪塔の特別公開も。 |
飢饉・天災と極楽寺・忍性の救済事業 極楽寺の忍性が掲げた十の大願 極楽寺の千服茶臼〜忍性と茶〜 |
箱根の宝篋印塔(多田満仲墓)と極楽寺の忍性(okadoのブログ) |
極楽寺は真言律宗の寺院。 開山の忍性は社会事業に力を注ぎ「医王如来」と崇められた高僧。 |
鎌倉市極楽寺3−6−7 0467(22)3402 江ノ電「極楽寺駅」からすぐ |
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