飢饉・天災と極楽寺・忍性の救済事業 |
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鎌倉時代中期、五代執権北条時頼の時代は災害と飢饉の時代。 『吾妻鏡』は、1258年(正嘉2年)6月24日条で「鎌倉の寒気はまるで冬天のようだ」と伝えている。 三代執権北条泰時の時代に発生した寛喜の飢饉に続き、正嘉年間にも深刻な飢饉に見舞われた(正嘉の飢饉)。 この頃の鎌倉は、冷害だけではなく、暴風雨も相次ぎ、大地震も発生している。 1260年(文応元年)、日蓮が北条時頼に提出した『立正安国論』には、 「天変・地夭・飢饉・疫癘遍く天下に満ち・・・・牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり」 と記されている。 1261年(弘長元年)、幕府は、病人・孤児(みなしご)・死体を路上に捨てることを禁止するが、路上には病人が捨てられ、由比ヶ浜には、捨てられた病人を収容する「無常堂」という施設があったという。 |
そんな悲惨な状況の中の1262年(弘長2年)2月、真言律宗の叡尊が鎌倉に下向。 叡尊の鎌倉での活動をつづった『関東往還記』によると・・・ 5月1日、浜悲田と大仏悲田で貧民たちに食を施している。 浜悲田を担当したのは、のちに極楽寺の開山となる忍性だった。 |
※ | 「悲田」とは、病人・貧民・孤児などを収容する施設。 |
鎌倉に下向した叡尊は、新清凉寺釈迦堂に滞在し、7月に鎌倉を去っている。 |
1267年(文永2年)、極楽寺の開山に迎えられた忍性は、極楽寺を拠点として、病人や貧民の救済事業にあたることに。 病人や貧民の救済だけでなく、極楽寺切通の開削や道路・橋の整備などの土木事業も行った。 1284年(弘安7年)には、永福寺・明王院・鎌倉大仏の別当に任命され、雨乞いの祈祷を行っている。 |
千服茶臼と製薬鉢は、茶を薬として調合するために使用した。 |
忍性が粥を施すために使用したという井戸。 |
極楽寺の千服茶臼〜忍性と茶〜 |
1278年(弘安10年)、八代執権北条時宗の要請によって鎌倉大仏の前に桑ヶ谷療養所を開設。 療養所の運営費用のために、土佐国大忍荘が寄進されている。 和賀江嶋の管理と引き換えに関税を徴収する権利も与えられた。 |
極楽寺の忍性が掲げた十の大願 |
極楽寺は真言律宗の寺院。 開山の忍性は社会事業に力を注ぎ「医王如来」と崇められた高僧。 |
鎌倉市極楽寺3−6−7 0467(22)3402 江ノ電「極楽寺駅」からすぐ |
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