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現存する日本最古の築港。 往阿弥陀仏という勧進僧が、三代執権北条泰時の許しを得て造り上げた(1232年(貞永元年))。 相模川や酒匂川などから運ばれた石が海中に200メートル程積み上げられ、1か月ほどで完成したといわれる。 材木座(由比ヶ浜)は、遠浅で風波が荒く、難破・破損する船が多かったため、防波堤の役割を果たしたと考えられる。 積まれた玉石は、漬物の押石や石垣用としてよく盗まれたため、警官が巡回していた時代もあったのだという。 材木座海岸には、当時運ばれてきた陶磁器などの破片が今でも流れ着く。 鎌倉時代には、極楽寺の管理下に置かれ、関料徴収の権利も極楽寺に与えられていた(港を利用する人や貨物から津料と呼ばれる税金を徴収していた。)。 |
1180年(治承4年)、源頼朝が鎌倉に入り、政治の中心が鎌倉に移ると、それまで寒村だった鎌倉も次第に賑わい、由比ヶ浜の海には多くの船舶が碇泊するようになった。 1223年(貞応2年)の成立と考えられている『海道記』には「数百艘の船が碇泊していて、まるで近江国の大津のようだ」と記されている。 この頃は、船が碇泊するための入り江「由比浦」があったのだという。 しかし、由比ヶ浜の海は遠浅で波濤荒く、多くの船が破損した。 そのため、往阿弥陀仏が幕府に申請して島を築くことになった。 『吾妻鏡』によると、7月15日に着工して8月9日には終了している。 以後、数百年間にわたって船舶の発着に便利を与え、材木座は大いに賑わい、鎌倉の海の玄関口として多くの物資が陸揚げされた。 「和賀」は、材木座の古名だとする説もあるが詳細はわからない。 |
和賀江嶋を築港した往阿弥陀仏という勧進僧についての詳しい事はわかっていないが、和賀江嶋の築港を手掛けた前年に、九州福岡の新宮浜に防波堤を築いている。 |
伝説の六角ノ井 |
飯島白鬚社 |
和賀江で梶原家茂を殺害した土屋宗遠 |
材木座海岸の沖にあった石。 1923年(大正12年)に起きた関東大震災で海底が隆起して現れた大石で、それまで、漁師の網が切られたり、泳いでいる子どもが引き込まれたりして魔の場所として知られていたらしい。 そして、この石は「よじべえ石」と名付けられた。 地元の人たちによって引き上げられた「よじべえ石」は、現在、鶴岡八幡宮の西の鳥居付近に置かれている。 |
和賀江嶋と続いていたと思われる飯島には、300軒もの家が建ち並んでいたというが、1370年(応永3年)の大水によって、ことごとく流出してしまったと伝えられている。 |
飯島岬 |
小坪路 |
鎌倉の海は、『海道記』に「由比ヶ浜に数百艘もの船がつながれている様子が近江の大津のようであり、家が建ち並んでいる様子は大淀のようである」と書かれるほど賑やかだった。 |
「亀の子岩」と呼ばれる岩には、和賀江嶋の石碑が建てられている。 「てんがしま」とも呼ばれている。 和賀江嶋は、江戸時代までは港として使用されていたが、江戸時代の後期になると、かなり沈下していたと考えられている。 明治には、この辺り一面が海で、この岩が島のようになっていたという。 1923年(大正12年)の関東大震災によって隆起し、和賀江嶋も水面から出てきたといわれている。 |
鎌倉市材木座6丁目 鎌倉駅東口から小坪経由逗子駅行バス 「飯島」下車徒歩2分 |
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