梶原家茂を殺害した土屋宗遠を赦免した源実朝 |
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『吾妻鏡』によると・・・ 1209年(承元3年)5月20日、源頼朝の法華堂で梶原景時とその一族のための仏事が営まれた。 その理由は・・・ 御所内で怪異な現象が起きたり、夢のお告げがあったからなのだとか・・・ 『吾妻鏡』に不思議な現象が記録された後には何かが起こる! 八日後の28日、小坪から帰る途中の梶原家茂が和賀江の辺りで土屋宗遠に襲われ殺害さた。 家茂は梶原景時の孫。 宗遠は土肥実平の弟。 宗遠は家茂に年来の恨みを持っていたのだという。 家茂を殺害した後、すぐに御所へ行った宗遠は、和田常盛に太刀を預け、身柄は侍所長官の和田義盛に預けられることに。 6月13日、宗遠が嘆願書を提出。 その内容は、 「頼朝様の時代から忠実に勤めてまりました。 一方、梶原家茂は謀反人・梶原景時の孫です。 奉公者と不忠者を比較するのは難しいですが、太刀を差し出したからといって、何故、囚われの身とならなければならないのでしょう」 和田義盛が将軍源実朝に取り次ぐと、嘆願書は筋道が立たないものだったが、この日が頼朝の月忌にあたっていたため、特別に赦免されたのだとか。 |
梶原家茂が殺害された和賀江の辺りは、現在の材木座。 和賀江嶋はこの時代にはないが、三代執権の北条泰時の時代に築かれた現存する我が国最古の築港。 |
1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに大敗した源頼朝は、8月28日、主従七騎で真鶴岬から安房国へと渡るが・・・。 その時、頼朝に従っていたのが、安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱だったのだと伝えられている。 |
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