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1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、山中に逃れ、一時箱根権現に潜んでいたが、土肥実平の案内で土肥郷へ下り、8月28日、この浜から安房へと向かった(参考:源頼朝上陸地)。 湯河原町の城願寺に残されている頼朝主従七騎の伝説によれば、従っていたのは、安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱。 頼朝の脱出に協力した漁船は、その後長く税が免除されたと伝えられている。 また、観音様が船頭となって助けてくれたという伝説も残されている。 その頃、北条政子は、平氏の手から逃れるため伊豆山権現を頼った後、秋戸郷に移っている。 |
源頼朝を助けた箱根権現の行実と永実 |
『吾妻鏡』の記録では、岡崎義実は頼朝の船出の前日に、北条時政・義時・近藤国平らと真鶴を船出したことになっている。 また、安房国に上陸したときには「土肥実平を連れて」と記録されているのみで他の名がないので、もしかすると頼朝の船に乗っていたのは実平のみだったのかも。 ただ、『延慶本平家物語』は、土肥実平も岡崎義実も頼朝とともに乗船し、安房国へ渡ったと伝えている。 |
浜は海水浴場となっており前方には岩大橋が架けられている。 |
観音信者だった源頼朝〜守り本尊は清水寺から授かった正(聖)観音像〜 真鶴から安房へ船出 |
源頼朝に従っていた土肥実平は、浜へ向かう途中の坂で、無事を祝い、再起を願って歌い舞ったのだという。 参考:焼亡の舞 |
土肥に三つの光あり 第一には八幡大菩薩我君を守り給う和光の光と覚えたり 第二には我君平家を討ち亡ぼし一天四海を照らし給う光なり 第三には実平より始めて君に志ある人々の御恩によりて子孫繁昌の光なり 嬉しや水水鳴るは瀧の水 悦び開けて照らしたる土肥の光の貴さよ 我家は何度も焼かば焼け 君が世にお出になったら広い土肥の椙山に茂る木を伐って邸など何度でも造りかえる 君を始めて万歳楽我等も共に万歳楽 |
真鶴から安房へ向けて船出した源頼朝。 このときに世話になった浦人3人に五味、青木、御守という苗字を与えた。 五味は食事を提供した者、青木は頼朝が隠れ潜んだ岩屋(鵐窟)を木で覆い隠した者、御守は見張り役をした者で、真鶴三苗字と呼ばれているのだとか。 真鶴駅前の旗挙げ鍋は、源頼朝旗挙フェスティバルで使用されたもの(現在、駅前には置かれていません。)。 |
源頼朝も使用した本小松石〜頼朝船出の地:真鶴〜 |
鵐窟 (真鶴町) |
しとどの窟 (湯河原町) |
児子神社 (真鶴町) |
瀧門寺 (真鶴町) |
児子神社は、悲しみの果てに海に身を投げた土肥遠平の子万寿を祀る社。 瀧門寺の五層塔は、万寿を葬った塔なのだと伝えられている。 |
貴船神社は、頼朝が必勝祈願の護摩を焚いたと伝えられている社。 例大祭の「貴船まつり」は日本三船祭の一つ。 |
源頼朝も使用した本小松石〜頼朝船出の地:真鶴〜 |
城願寺七騎堂 (湯河原町) |
源頼朝上陸地 (鋸南町) |
土肥実平の菩提寺城願寺の七騎堂には、頼朝主従七騎の像が祀られている。 岩海岸から船出した頼朝が上陸したのは、安房国の平北群猟島なのだという。 |
源頼朝特集・・・挙兵から鎌倉入り(okadoのブログ) |
頼朝が船出する前日の8月27日、三浦義澄をはじめとする三浦一族も久里浜から安房に向けて船出している。 住吉神社に祈願して船出した三浦一族は、安房国で頼朝を出迎えたのだという。 |
「源頼朝船出の浜」(岩海岸)は、JR真鶴駅から徒歩15分。 |
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