石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、土肥の椙山に逃れた後、箱根権現の行実と永実を頼ります。 しかし、行実と永実の弟智藏房良暹が、兄たちを裏切り、僧兵を集めて頼朝を襲おうとしていることがわかりました。 この良暹という男、頼朝がまず血祭りに上げた山木兼隆の祈祷師をしていたのだといいます。 行実は「良暹を恐れることはないが、大庭景親がこれを聞きつけ、攻めてきたらいけないので、逃げた方がいい」 と進言します。 |
山中に逃れた頼朝が身を潜めたと伝えられる岩窟。 |
小道地蔵堂には、石橋山で大敗した源頼朝を匿った純海和尚の伝説が。 |
頼朝を匿った箱根権現は頼朝が崇敬していた神社。 |
源頼朝を助けた箱根権現の行実と永実 |
箱根権現を去った頼朝は、土肥実平らとともに土肥郷へと向かい、8月28日、 真鶴から海路安房へと船出します。 船は、土肥実平の命で、土肥の住人貞恒が用意しました。 |
湯河原町にある城願寺の七騎堂には、船出に従ったと伝えられる安達盛長、岡崎義実、新開忠氏、土屋宗遠、土肥実平、田代信綱と頼朝の像が安置されています。 ただ、『吾妻鏡』によると、岡崎義実は頼朝の船出の前日に、北条時政・義時・近藤国平らと船出したことになっています。 時政らが船出した日、衣笠合戦で総帥の三浦義明を失った三浦一族も安房へ出航しています。 |
土肥実平夫妻像 (JR湯河原駅) |
七騎堂 (湯河原町・城願寺) |
児子神社 (真鶴町) |
瀧門寺 (真鶴町) |
児子神社は、悲しみの果てに海に身を投げた土肥遠平の子万寿を祀る社。 万寿の母は、頼朝に敵対した伊東祐親の次女・万劫。 瀧門寺の五層塔は、万寿を葬った塔なのだと伝えられている。 土肥遠平は、土肥実平の嫡男。 戦国時代に後北条氏の居城となった小田原城は、遠平が早川荘に築いた小早川城に始まるのだという。 |
鵐窟 (真鶴町) |
貴船神社 (真鶴町) |
鵐窟は、船出する頼朝主従が隠れ潜んでいたという岩窟。 貴船神社は、頼朝が必勝祈願の護摩を焚いたと伝えられている社。 例大祭の「貴船まつり」は日本三船祭の一つ。 |
源頼朝も使用した本小松石〜頼朝船出の地:真鶴〜 |
頼朝が挙兵すると、妻の北条政子と娘の大姫は走湯権現(伊豆山権現)に身を寄せていましたが、9月2日、平氏の手から逃れるため、別当の文陽房覚淵の計らいによって、秋戸郷(あきとのごう)に移されています。 |
伊豆山神社 (熱海市) |
秋戸郷跡 (熱海市) |
源頼朝は、安房国に上陸する前に下総国行徳に漂着し、うどんを食べて力を得たのだとか・・・ |
石橋山の戦い |
鎌倉入り |
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