1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに敗れ土肥山中に逃れた源頼朝は、椙山の堀口という辺りに陣を構えたといいます。 追ってくる大庭景親の軍勢に対し、頼朝に供した武将はよく防戦し、頼朝を守りました。 |
山中に逃れた頼朝が身を潜めたと伝えられる岩窟。 |
〜頼朝を探して供するよう命じた北条時政〜 |
北条時政・宗時・義時の親子も景親の軍勢と戦っていましたが、戦いに疲れ峰を登れずにいたため、頼朝とは行動をともにはしてはいませんでした。 時政らに供をしていた武将は、「時政にお供していきたい」と申し出ますが、時政は「早く頼朝を捜してお供をするように」と命じたといいます。 時政の命令に従った武将たちが、崖をよじり登っていくと、臥木の上に頼朝が立ち、傍らに土肥実平がいました。 |
〜集まった武将を分散するよう提案した土肥実平〜 |
多くの者が集まってきたことで、頼朝は大変喜びますが、 土肥実平は「皆が集まったことは喜ぶべきことだが、この大人数では、山中に隠れているのが難しい。頼朝様一人であれば、この後、たとえ10日であろうと一月であろうと、実平が計略を加えて隠すことができる」と述べます。 しかし、皆、「頼朝の供をしたい」といい、頼朝自身もそうあってほしいと考えていたようでしたので、実平は再度「今別れることは、のちの大幸である。皆が命を全うし、今後の計画を巡らせば、恥を注ぐことができる」と述べます。 こうして、皆が別れていきましたが、涙が眼を遮り道がよく見えなかったといいます。 |
〜頼朝の数珠を探してきた飯田家義〜 |
その後、頼朝を椙山に手引きした飯田家義が、頼朝が落とした数珠を持ってやってきます。 この数珠は、頼朝が普段から持ち歩いていたもので、狩りなどで相模国の武士達は皆この数珠を見知っていたといいます。 それを家義が探し出して持ってきてくれたので、頼朝は大いに喜びました。 家義は、頼朝の供を願い出ますが、土肥実平が先のように説得したため、泣きながら退去していったといいます。 |
飯田家義の館があった場所と伝えられている。 |
〜頼朝を見逃した梶原景時〜 |
頼朝を追う大庭軍の中に、のちに頼朝の片腕ともなる梶原景時がいました。 景時は、頼朝の所在を知っていながら「この山には人はいない」といって、大庭景親の手を曳いて傍らの山に上っていったのだと伝えられています。 この間、頼朝は髷の中の正観音像を岩窟の中に置きます。 土肥実平がどうしてか尋ねると「景親ら平氏に首を討たれるときに、この正観音像を見ると、源氏の将軍らくしくないと非難される」 という理由だったといいます。 |
※ | 頼朝が洞窟に置いた観音像は、のちに探し出され頼朝のところに戻ります。 頼朝の持仏堂(法華堂)の本尊は、この観音像でした。 |
土肥祭の武者達は源氏の白旗を掲げていますが、一人だけ平家の赤旗を掲げている者がいます。 |
〜頼朝に弁当を届けた永実〜 |
箱根権現の永実は、弁当を届けるために頼朝の陣へとやってきました。 別当の行実が、弟の永実に弁当を持たせたのだといいます。 永実は、まず、夜になってから頼朝に合流していた北条時政に頼朝の所在を尋ねます。 しかし、時政は「頼朝様は、大庭景親の囲みを逃れることができなかった」 と答えます。 すると永実は 「貴方は私の短慮を試されているようだ。 頼朝様が亡くなれば貴方は生きていないはず」 と問い返したといいます。 時政は大いに笑って、永実を頼朝のもとへ連れて行きました。そして、永実は、持参した弁当を献上します。 頼朝も供の者も飢えきっていたので皆喜びました。 土肥実平は頼朝に「世の中が落ち着いたならば、永実を箱根権現の別当にしてあげてください」 と申し上げると、頼朝はこれを承諾したといいます。 その後、頼朝は永実の案内で箱根に向かいます。 そして、箱根権現別当の行実邸は、参詣の民衆が集まるので、永実邸に入ります。 |
頼朝を匿った箱根権現は頼朝が崇敬していた。 |
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