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土肥実平(どいさねひら)は、桓武平氏の血をひく相模の豪族中村氏の一族。 土肥郷(現在の湯河原町、真鶴町)を本拠としていた武将。 1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵には、弟の土屋宗遠をはじめとする中村一族を率いて参陣。 石橋山の戦いで大敗した頼朝を真鶴から安房へ渡らせる手引きをし、その後も、平家討伐や奥州征伐に参陣するなど大きな功績を残している。 1191年(建久2年)7月、鎌倉幕府に新たに厩が建てられ、それを沙汰したのが、岡崎義実と土肥実平だったという記録が最後となっていることから、この年の暮れごろ亡くなったものと考えられている。 |
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※ | 実平の死亡時期には諸説ある。 |
1180年(治承4年)、源頼朝が源氏再興の挙兵。 伊豆国の目代山木兼隆を討ち取り気勢をあげると、相模に向かって進軍。 その数、約300騎といわれている。 石橋山に布陣するが、大庭景親軍3000騎、伊東祐親軍300騎との合戦に大敗し、頼朝は土肥実平の手引きによって土肥の椙山に逃れた。 このとき、頼朝が隠れ潜んだといわれる洞窟が「しとどの窟」。 実平の妻は、「しとどの窟」に食糧を運んだのだと伝えられている。 当時、平家方にあった梶原景時が隠れ潜む頼朝を見逃したという伝説も残されている。 その後、頼朝は箱根権現に身を寄せるが、再び土肥へ戻り、真鶴半島から安房国へ向けて船出した。 頼朝が鎌倉入りした後、平家方にあった梶原景時は、実平の取りなしで御家人に列している。 |
石橋山古戦場 (小田原市) |
しとどの窟 (湯河原町) |
箱根神社 (箱根町) |
鵐窟 (真鶴町) |
源頼朝船出の浜 (真鶴町) |
源頼朝上陸地 (鋸南町) |
城願寺は土肥実平の菩提寺。 七騎堂には、頼朝に従って真鶴から船出したという安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・源頼朝・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱が祀られている。 安房へ船出することを決めた頼朝主従は八騎。 源氏にとって「八騎」というのは不吉な数であることから、七騎にするよう命じられた実平は、子の遠平を下船させたのだという。 |
※ | 新開忠氏は土肥実平の子らしい? |
※ | 土屋宗遠は土肥実平の弟。 |
※ | のちに後北条氏の居城となる小田原城は、遠平の小早川城に始まる。 |
土肥祭 |
焼亡の舞 |
土肥祭は、湯河原町で開催されている土肥実平を偲ぶ祭。 「源頼朝旗挙げ武者行列」や実平が頼朝の前で舞ったという「焼亡の舞」が披露される。 |
挙兵の決意 山木館襲撃1 山木館襲撃2 相模国へ進軍 頼朝を助けた者たち 鎌倉入り 相模の武将「大庭氏」 |
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