1180年(治承4年)8月2日、平等院の戦いに参じていた大庭景親らの相模国の武士たちが源頼朝を討つために戻ってきました。 一方、頼朝は、8月4日、北条時政を呼んで伊豆国の目代山木兼隆を討つべく軍略を練ったといいます。 しかし、山木館は要害の地にあって、攻めるのに困難を極めると推測されていました。 そこで、頼朝は、以前より藤原邦通を密偵として山木館に送り込んで、館図や地図を作らせていました。 この日、邦通が作成した館図と館付近の地図を頼朝に届けられます。 その出来映えは、まるで現地にいるかのようなものだったといいます。 8月6日、頼朝は山木館襲撃を8月17日と決定します。 そして、工藤茂光・土肥実平・岡崎義実・宇佐見祐茂・天野遠景・佐々木盛綱・加藤景廉など、当時頼朝の下に集まっていた者を一人一人部屋に呼んで丁寧に言葉をかけたといいます。 |
山木兼隆は、父和泉守信兼の訴えによって伊豆国の山木郷に配流された流人でしたが、元々は平家の一族ですので、この頃には平清盛の権を借りて、伊豆国の目代となって郡郷を支配していました。 当時、伊豆国の知行国主は「平家にあらずんば人にあらず」と言い放った平時忠です。 時忠は一族の時兼を国守としますが、時兼は赴任せず、兼隆を目代とし、堤権守信遠がその後見をしていました。 頼朝は、この伊豆国目代の山木兼隆を初戦の相手に選びます。 |
源頼朝は、1180年(治承4年)の挙兵に際して、山内経俊と波多野義常へ参陣を呼びかけます。 使者となった安達盛長の報告によると・・・ 「相模国には従う者は多くいます。 しかし・・・ 波多野右馬允義常と山内首藤滝口三郎経俊は、呼びかけに応ずるどころか、暴言を吐く始末です」 というものだったと伝えられています。 波多野義常は、相模国波多野荘や松田郷を領した武将で、頼朝の父義朝に仕え、叔母は義朝の子朝長を産んでいましたが、保元の乱後、義朝の嫡子の問題で源氏とは不和になっていたのだといいます。 山内経俊は、相模国鎌倉郡山内荘を領した武将で、母の山内尼は頼朝の乳母を務めていましたが、平治の乱後は平家に従っていました。 |
山木館襲撃の日となった8月17日は、三嶋大社の大祭でした。 頼朝は祭の雑踏を利用して山木館を襲撃しようとしたのだと伝えられています。 |
頼朝は、三嶋大社を崇敬し、源氏再興を祈願するため百日間の日参をしたのだといいます。 その日々の中には多くの伝説が生れました。 |
挙兵の決意 |
山木館襲撃その2 |
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