山木館襲撃の前日(8月16日)は雨でした。 源頼朝が頼みとしていた佐々木四兄弟は、この日到着するはずでしたが、洪水のため遅れ、到着したのは合戦当日(8月17日)の午後になってからでした。 そのため、朝方に山木館を襲撃する予定が変更されています。 8月17日の晩、頼朝は加藤景廉と佐々木盛綱を傍らにのこし、山木館を攻めさせます。 北条館を出陣した頼朝軍は、まずは原木の北方の肥田原へ進軍。 ここで北条時政は佐々木定綱に、山木兼隆の後見役・堤信遠を攻めるよう頼んでいます。 それを承知した定綱は、弟の経高、高綱とともに牛鍬を東へ進軍。 堤信遠館を襲撃して信遠を討ち取りました。 このとき、経高の放った鏑矢が、平家を征伐するための最初の矢となりました。 一方、時政は天満坂を進軍して、山木兼隆館を攻めます。 そこに堤信遠を討った佐々木定綱、経高、高綱が駆けつけます。 頼朝は「戦が始まったら火をつけるように」と命じていましたが、 その火がなかなか見えないので、留守の加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家らを山木館へ向かわせました。 景廉には、長刀を与え「兼隆の首を討って持参すべし」と命じています。 そして・・・ 盛綱と景廉が山木館に入り、見事に山木兼隆を討ち取りました。 |
加藤景廉に長刀を授ける源頼朝(三嶋大社蔵)。 |
皇大神社は山木の鎮守。 相殿には山木兼隆が祀られている。 |
頼朝が源氏再興を祈願した三嶋大社にある旗挙げの碑。 |
源頼朝挙兵の日(okadoのブログ) |
源頼朝は、伊豆に流されてから、読経をおこたらず、尾張国野間で家臣の長田忠致に暗殺された父・源義朝や鎌田政長らを弔いながら日々を送っていました。 しかし、これから読経がおろそかになってしまうことを心配していると、北条政子は、伊豆山権現の尼・法音に読経の代行してもらうことを勧めます。 法音は、政子の経の師でした。 頼朝が目録を法音に提出すると、法音は快諾したのだそうです。 |
佐々木四兄弟(定綱、経高、盛綱、高綱)は、近江源氏佐々木秀義の子。 1159年(平治元年)の平治の乱で源義朝に味方して敗れた秀義は、藤原秀衡を頼るため奥州平泉へ向かう途中の渋谷庄で渋谷重国に引き止められ、子らとともに重国の保護を受けていました。 早川城は重国の居城。 |
1180年(治承4年)8月15日、頼朝は守山八幡宮に源氏再興を祈願したと伝えられています。 守山八幡宮は、北条館があった守山中腹に鎮座する神社。 |
山木館襲撃その1 |
相模国へ進軍 |
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