鎌倉手帳(寺社散策)

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長田父子磔の松
〜源義朝最期の地〜

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長田父子磔の松


 平治の乱平清盛に敗れ、尾張国野間の長田忠致・景致父子のところに身を寄せた源義朝は、忠致の裏切りに遭い入浴中に殺害された。

 1180年(治承4年)、源頼朝が鎌倉に入り、平家の全盛が終わると、忠致父子は頼朝の下で働き、多くの手柄をたてたという。

 頼朝は、父義朝を殺害した忠致に対し「勲功があったなら美濃と尾張を与える」と言っていたのだとか・・・。

 しかし、1190年(建久元年)、上洛の途上で尾張国野間に立ち寄った頼朝は、手柄をたてた忠致・景致父子に恩賞を与えるといって誘き出し、松の木に磔(はりつけ)にして殺したのだと伝えられている。

 ただ、忠致・景致父子の死については諸説あって不明な点が多い。


「美濃尾張」=「身の終わり」という意味だったらしい。

『吾妻鏡』によると長田忠致の二人の子は駿河国鉢田で討死している。



リンクボタン源義朝を暗殺した長田忠致

リンクボタン常盤御前に源義朝の死を知らせた金王丸

リンクボタン頼朝の挙兵と甲斐源氏





〜尾張平氏・長田氏〜

 長田氏は、坂東八平氏の庶流・平致頼を祖としている。

 致頼は、藤原道長に仕え、源頼朝の先祖・源頼信らとともに「道長四天王」の一人に数えられた。





湯殿跡
リンクボタン御湯殿跡
(法山寺)
源義朝の墓
リンクボタン源義朝墓
(野間大坊)

 御湯殿は義朝が暗殺された所。

 木太刀が供えられた義朝墓の周囲には、頼朝の助命嘆願をした池禅尼、義朝とともに暗殺された鎌田政家と妻の墓も置かれている。





〜江戸幕府の老中となった永井尚政〜


永井家の墓
リンクボタン永井家の墓
(東京都中野区:萬昌院)

 江戸幕府二代将軍徳川秀忠のもとで老中を務めた永井尚政の先祖は、長田忠致の兄・長田親致。

 祖父・長田重元が三河国に移って松平広忠(徳川家康の父)に仕え、父・直勝は徳川家康に仕えることとなるが・・・

 主君を殺害した忠致に繋がるとして「永井」に改姓させられたのだという。









〜源義朝と美浜町野間〜
源義朝終焉の地
リンクボタン源義朝最期の地:野間


歴史めぐり源頼朝





長田屋敷跡
長田屋敷跡

 長田忠致は、尾張国野間を本拠とし、源氏に従っていた。
 忠致の娘は、義朝の郎党鎌田政家の妻。

愛知県知多郡美浜町野間(野間大坊近く)

名鉄知多新線 野間駅から徒歩10分



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