『吾妻鏡』によると・・・ 甲斐国の源氏・武田信義と一条忠頼らは、源頼朝の石橋山の戦いの事を聞くと、頼朝に参陣するため駿河国へ向かおうとしたそうですが、信濃国で平家に味方する者があると聞いて、まずは信濃国へと向かったのだそうです。 |
1180年(治承4年)9月9日、諏訪大社上宮の庵沢の辺りに宿泊したところ、深夜、一条忠頼の陣に一人の女が現れます。 怪しみながらも忠頼はその女を火の近くに招きよせました。 女は諏訪大社の大祝篤光(おおはふりあつみつ)の妻で、夫の使者として参ったとのこと。 篤光は、源家の祈祷のため、社頭に籠って、もう三日も外に出てきていませんが、夢の中に梶葉紋の直垂を着て葦毛の馬に乗った勇士の一騎が、源氏の味方だと言って、西へと走っていったのだといいます。 ※梶葉紋は諏訪大社の神紋。 これは諏訪大明神の夢のお告げ。 夢から覚めて、すぐにお伝えしようと思ったようですが、社頭にいるべきと考え、妻を使いによこしたのだそうです。 諏訪大社を信仰していた一条忠頼は、公家の太刀一腰と腹巻一領を女に与え、すぐに出陣し、平家に味方する菅冠者の伊那郡大田切郷の城へと軍を進めます。 しかし、菅冠者は戦わずして館に火を放って自殺してしまったのだとか。 諏訪大明神のお告げによって菅冠者を滅ぼすことができた一条忠頼は、田畑を諏訪大社の上宮に平出と宮所の二郷を、下宮に龍市の一郷を寄付することとします。 右筆に寄進状を書かせると、 岡仁谷郷の文字を書き足しまったので、書き直させますが、また岡仁谷郷を書いてしまいます。 その後、何度書き直させても書き足してしまうのだそうです。 そこで、古老に聞いてみると・・・ 岡仁谷と呼ばれる所はあるのだとか。 武田信義と一条忠頼は、上下の宮に差別があってはならないという神のお告げだとして、ますます信心したのだそうです。 |
その後・・・ 武田信義と一条忠頼は、信濃国で平家に味方する者を数多く討ち取り、9月14日、甲斐国へ帰って逸見山に宿泊。 そして、9月15日、北条時政が到着し、源頼朝の伝言が伝えられました。 北条時政は、9月8日、頼朝の命を受けて甲斐国へ出発していました。 頼朝の命は、甲斐国の源氏を引き連れて信濃国へ行って「平家に味方する者を滅ぼせ」というものだったようです。 9月20日、頼朝は、武田信義らに上野、下野、武蔵の兵を率いて駿河国へ向かい、北条時政を案内人として黄瀬川の辺りで平家軍を迎え撃つように伝えるため、土屋宗遠を使者として甲斐へ向かわせます。 9月24日、北条時政と甲斐国の源氏らが石和に宿泊しているところへ、真夜中になって土屋宗遠が到着。 武田信義、一条忠頼らは、駿河国で頼朝と逢えるように出発することを決めています。 このころ都では平維盛が源氏討伐の準備を進めていたようです。 10月1日には、駿河国の代官橘遠茂が興津の辺りに陣を構えています。 そして、10月6日、頼朝は大軍を率いて鎌倉に入っています。 |
10月13日、甲斐源氏と北条時政、義時父子が駿河国へ出発。 大石宿に泊ることとしますが、橘遠茂が富士野に回って攻めて来るという報告があったため、迎え撃つこととした武田信義、一条忠頼、板垣兼頼、武田有義、安田義定、逸見光長、河内義長、石和信光らは軍議の末、富士山の北麓の若彦路を越えて行きます。 石橋山の戦い後、甲斐に逃れていた加藤光員と加藤景廉も共に駿河国へ向かっています。 ※橘遠茂の作戦は、源義朝を暗殺した長田忠致の計略だったのだとか。 翌10月14日、鉢田の辺りで橘遠茂の大軍に遭遇。 狭い道でのことで、大軍だった橘遠茂が前に出ることも引くこともできない状況の中、石和信光と加藤景廉らが攻め込み勝利。 長田忠致の子2人を討ち取り、橘遠茂は捕虜とされました。 10月16日、源頼朝が鎌倉を出発。 10月18日、頼朝が黄瀬川宿に到着すると、甲斐・信濃の源氏と北条時政が2万騎を率いて参陣。 10月19日、小笠原長清が参陣(長清は小笠原流弓馬礼法の祖)。 そして、10月20日、頼朝軍は駿河国賀島に到着。 富士川の西に陣を構える平惟盛、平忠度、平知度らと対峙します。 宵闇の頃、武田信義が平家の陣を背後から襲撃しようとすると、水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音に驚いた平家軍は、夜明けを待たずして敗走していったのだと伝えられています。 富士川の戦い |
のちの戦国大名で無敵と呼ばれた騎馬軍団を率いた武田信玄は、武田家の19代当主。 |
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