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武田八幡宮は、822年(弘仁13)に宇佐神宮の分霊を勧請して創建されたのだ伝えられている。 のちに石清水八幡宮も勧請。 甲斐源氏で武田氏の祖・武田信義は、武田八幡宮で元服して氏寺とし、社殿を再建したのだという。 現在の本殿は、武田家十九代当主の武田信玄が再建したもので国の重要文化財。 摂社若宮は、信義の弟加賀美遠光が建立。 |
誉田別命:応神天皇 (ほんだわけのみこと) 足仲津彦命:仲哀天皇 (たらしなかつひこのみこと ) 息長足姫命:神功皇后 (おきながたらしひめのみこと) 武田武大神:日本武尊の子 (たけだたけのおおかみ) |
大鷦鷯尊:仁徳天皇 (おおさざきのみこと) |
武田信玄と父の信虎が再建した鳥居。 |
武田信玄が書いたもので「武」の字が一画多いらしい。 刀を抜かないという心情を表したものなのだとか。 |
三の鳥居と石垣は県の指定文化財。 |
強弓で知られる源為朝を祀る神社。 為朝は保元の乱後、伊豆大島に流されたが、伝説によると、その後、武田信義のもとに身を寄せていたのだとか・・・ |
1582年(天正10年)2月、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻が始まると、2月19日、武田勝頼の継室・北条夫人は武田氏の安泰を祈願して「武田勝頼夫人北条氏祈願文」を武田八幡宮に奉納。 しかし、3月に入ると戦況は悪化。 3月3日、勝頼は居城の新府城に火を放ち岩殿城を目指すが・・・ 城主の小山田信茂の裏切りに遭い、3月11日、勝頼は子の信勝・北条夫人らとともに天目山の麓の田野で自害した。 勝頼夫人は小田原の北条氏政の妹で19歳だったのだという。 田野の景徳院に三人の墓がある。 |
武田信義館 信義の館跡 |
信義の菩提寺 願成寺 |
武田信義像 |
武田氏は、新羅三郎義光(源義光)を祖とする源氏。 武田信義は、甲斐源氏の祖源清光の次男。 伊豆国で挙兵した頼朝に呼応して駿河国に侵攻し、富士川の戦いでは平家軍を敗走させた。 |
武田信光は、武田信義の五男。 武田流流鏑馬は、信光を祖とする安芸武田氏に伝えられた弓馬術。 |
小笠原長清は、甲斐源氏・加賀美遠光の次男。 小笠原流流鏑馬は、長清からの受け継がれた伝統技術。 |
石和八幡宮は、武田信光が鶴岡八幡宮を勧請した社。 源氏が重んじた射法相伝の儀式はすべてここで行なわれていたのだという。 |
山梨県韮崎市神山町北宮地1185 韮崎駅前ロータリーから韮崎市民バス円野線で「武田八幡入口」下車 徒歩約5分 |
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