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岩殿山(いわどのやま)は、桂川と葛野川が合流する相模国との境のあって、標高は634メートル。 この山に築かれたのが岩殿山城。 岩殿城とも。 築城年は不明だが、甲斐国都留郡の国衆・小山田氏が居館(谷村館)の詰城として築いたものと考えられている。 ただ、近年では、谷村館の詰城とするには距離が離れすぎていることから、武田氏が築いたとする説もある。 小山田氏は、武蔵国の秩父を本拠とした秩父氏の流れを汲む氏族で、秩父重弘の子有重を祖とする。 源頼朝に仕え「鎌倉武士の鑑」と呼ばれた畠山重忠は、有重の甥にあたる。 |
小山田信茂は、武田信玄と武田勝頼に仕えた武将。 1582年(天正10年)3月、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)で、新府城を放棄した勝頼は、信茂を頼って岩殿山城を目指すが・・・ 信茂の裏切りに遭い、天目山の麓の田野で自害。 武田氏が滅亡したことにより甲斐国は織田信長の統治下となる。 合戦後、信茂は信長に嫡男を人質に出して従属しようとしたが、信長の子信忠から主君への不忠を咎められ、同行していた武田信堯(信玄の甥)とともに甲斐善光寺で処刑されたのだと伝えられている。 |
甲斐善光寺は、1558年(永禄元年)、上杉謙信との合戦で信濃善光寺の焼失をおそれた武田信玄が本尊善光寺如来をはじめとする寺宝を山梨郡板垣郷に移したことに始まる (参考:川中島古戦場)。 木造源頼朝坐像・木造源実朝坐像は、国内最古の尊像とされる。 |
景徳院は、武田勝頼終焉の地・田野に徳川家康が勝頼と家臣らの菩提を弔うために建立させた寺。 |
武田氏が滅亡した年の6月、本能寺で信長が横死すると(本能寺の変)、甲斐国では天正壬午の乱が起こり、北条氏直の家臣で相模国津久井城主の内藤綱秀が確保。 その後、徳川家康と北条氏直との間に同盟が成立し、北条氏は甲斐国から撤退。 家康が領することとなり、江戸時代も要塞としての機能を果たしている。 |
山梨県大月市賑岡町強瀬 JR中央本線大月駅から山頂まで徒歩約1時間。 |
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