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新府城(しんぷじょう)は、武田勝頼が七里岩(しちりいわ・韮崎市)に築いた城。 七里岩は山梨県の峡北地方にある台地で、西側は韮崎から諏訪まで約30ロメートル続く断崖絶壁。 1575年(天正3年)の長篠の戦いで織田信長と徳川家康の連合軍に大敗した勝頼は、領国立て直しのため、信虎・信玄・勝頼の三代が本拠とした甲府の躑躅ヶ崎館からの移転を計画。 移転を進言したのは穴山信君(梅雪)、普請奉行を命じられたのは真田昌幸だったといわれる(諸説ある。)。 織田・徳川軍の侵攻に対抗するため、1581年(天正9年)から築城が開始され、その年のうちには入城するが、未完の城だったといわれている。 ただ、武田家の甲州流築城技術の集大成の城郭だったらしい。 |
1956年(昭和31年)、長篠・設楽原の戦いの戦没者が葬られている信玄塚から武田将士の英霊が分骨されている。 |
勝頼が新府城に入った翌1582年(天正10年)1月、新府城造営の賦役増大と重税に不満をもった信濃国木曽谷の木曽義昌が謀反。 勝頼は鎮圧の兵を差し向けるが、織田信長の援軍を得た義昌に鳥居峠で撃退されてしまう。 この戦いが織田・徳川連合軍の甲州征伐のきっかけとなり、2月には甲斐侵攻を開始。 3月2日には総攻撃が行われ、翌3日、勝頼は新府城に火をかけて小山田信茂の岩殿城に向かうが・・・ 信茂が離反したことで、進路を塞がれた勝頼は、3月11日、天目山の麓の田野で継室の北条夫人・嫡男の信勝とともに自害。 武田氏は滅亡した。 |
新府城跡の藤武神社は、藤井庄と武田庄を見下す所に鎮座することから藤武という名称なのだという。 武田勝頼が新府城を築いた際には、鎮守として祀られたが、落城とともに焼失。 武田氏滅亡後、甲斐国は織田信長の領地となるが、間もなく本能寺の変で信長が横死。 武田氏旧領をめぐる天正壬午の乱が起こるが、徳川家康は新府城を本陣として若神子城に布陣した北条氏直と戦った。 乱後、甲斐国を領することとなった家康は、藤武神社を再建。 再建担当者は、松平信康の守役だった平岩親吉と伝わる。 |
武田勝頼公霊者は、武田氏滅亡後に勝頼の霊を祀るため建立された石祠。 |
武田神社は、武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)が本拠とした躑躅ヶ崎館跡に建てられた神社。 躑躅ヶ崎館は甲斐国の政庁(府中)として機能し、背後に詰城の要害城があって防御には適していたが、城下町を拡大するには限界があった。 そのため、勝頼は府中の移転を考えたのだといわれる。 |
木曽氏の墓は、木曽義昌が勝頼に人質として差し出していた70歳の母・13際の嫡男・17歳の長女のもの。 義昌が勝頼を裏切ったことにより、3月1日に処刑された。 |
韮崎は、武田氏の祖・武田信義が館を構えた地。 武田八幡宮は、武田氏の祖・武田信義が元服したという神社で、信虎や信玄も信仰した武田氏の氏神。 織田・徳川連合軍の甲斐侵攻が始まると、2月19日、勝頼の継室・北条夫人は武田氏の安泰を祈願して「武田勝頼夫人北条氏祈願文」を武田八幡宮に奉納した。 北条夫人は北条氏康の娘。 |
景徳院は、勝頼と嫡男信勝・継室の北条夫人が自害した地に建てられた寺。 伝説によると・・・ 甲州征伐で追い詰められた勝頼は、終焉の地となる天目山の麓の田野で、松の根元に「御旗」(日の丸)を立て、嫡子の信勝に「楯無」(たてなし・鎧)を着せて元服の儀を執り行ったのだという。 「御旗」と「楯無」は、武田氏の祖・新羅三郎義光伝来の重宝。 その後、勝頼と信勝は自害。 「御旗」は、家臣が山伝いに運んで雲峰寺に託し、「楯無」は向嶽寺の庭に埋められたが、のちに徳川家康が掘り出させて、菅田天神社に納められたのだという。 |
雲峰寺 (甲州市) |
菅田天神社 (甲州市) |
京都の一条通の辻で晒された勝頼の首は、信玄や勝頼が帰依していた妙心寺の南化玄興がもらい受けて妙心寺に葬ったのだという。 法泉寺には、快岳周悦が南化玄興から譲り受けた歯髪が葬られたのだと伝えられる。 首級牛蒡の伝説 |
天正壬午の乱後、武田氏三代の城・躑躅ヶ崎館には仮御殿が造営されて家康の家臣・平岩親吉が入城。 躑躅ヶ崎館の詰城で信玄誕生の寺・積翠寺がある要害山城にも城番が配置された。 家康が関東移封となった後も豊臣氏の家臣・加藤光泰によって修築されていたが・・・ 関ヶ原の戦い後、甲府城の築城が本格化すると躑躅ヶ崎館と要害山城は廃城となった。 |
山梨県韮崎市中田町中條上野字城山 JR中央本線新府駅から徒歩約15分 |
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