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妙心寺は、1337年(建武4年)開創の臨済宗妙心寺派大本山。 本尊は釈迦如来。 1335年(建武2年)、落飾した花園法皇は、大徳寺を開いた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)に参禅して悟りを得ると、宗峰の弟子関山慧玄(かんざんえげん)を開山として、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めた。 宗峰は、花園法皇に高弟の関山慧玄を推挙して、1337年(建武4年)12月に没したのだという。 山号寺号の「正法山妙心寺」は宗峰が命名。 |
鎌倉の建長寺十三世の南浦紹明(大応国師)→宗峰妙超(大燈国師)→関山慧玄へ続く法系は「応灯関」と呼ばれ、現在の日本臨済宗の源流とも言えるのだという。 |
1339年(応永6年)、第六世・拙堂宗朴(せつどうそうぼく)が足利義満の怒りを買い、寺領を没収の上、龍雲寺と改名させられたが、1432年(永享4年)、日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)が妙心寺を復興した。 その後、1467年(応仁元年)の応仁の乱の兵火によって焼失するが、1477年(文明9年)、雪江宗深(せっこうそうしん)が再興。 1509年(永正6年)には、利貞尼(りていに)が仁和寺領の土地を買い求め、妙心寺に寄進。 広大な境内地に七堂伽藍と塔頭寺院が創建され、大いに繁栄した。 現在も山内塔頭は38院、境外塔頭は龍安寺をはじめ10院を数える。 |
勅使門 |
三門(山門) |
法堂 |
大方丈 |
南化玄興は妙心寺58世で、甲斐国恵林寺(武田信玄菩提寺)の快川紹喜の弟子。 1582年(天正10年)、織田信長・徳川家康の連合軍による甲州征伐で滅亡し、京都で晒された武田勝頼の首を引き取り、妙心寺玉鳳院に埋葬したのだという。 その後、甲斐国法泉寺の快岳周悦が勝頼の歯髪を譲り受け、法泉寺に葬ったのだと伝えられている。 |
恵林寺は七朝帝師と呼ばれた夢窓疎石が開いた臨済宗の古刹。 武田信玄に招かれて恵林寺の住持となった快川紹喜は、甲州征伐の際の恵林寺焼き討ちで焼死。 |
恵林寺焼き討ち〜信長公記が伝える甲州征伐〜 |
法泉寺には、快岳周悦が南化玄興から譲り受けた歯髪が葬られたのだと伝えられる。 |
武田勝頼の首級牛蒡の伝説 |
妙心寺の境内には40あまりの塔頭が建ち並び一大寺院群を形成している。 境内塔頭の中で常時公開されているのは退蔵院、桂春院、大心院。 |
桂春院 (常時公開) |
大法院 (期間限定) |
龍安寺 (境外塔頭) |
1583年(天正11年)、石川光重が父光延の菩提を弔うために創建。 開山は光重の兄で妙心寺67世の功沢宗勲。 一説によると・・・ 真田信繁(幸村)の七女・おかねを妻としたという石川貞清は光重の子。 大坂夏の陣で最期を遂げた信繁の亡骸は養徳院に埋葬されたとの伝承がある。 |
真田信繁(幸村)の墓所〜京都:妙心寺塔頭養徳院と大珠院〜 |
京都市右京区花園妙心寺町64 南門 JR嵯峨野線(山陰本線)「花園駅」下車 北門 京福電鉄北野線「妙心寺駅」下車 |
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