|
武田勝頼は武田信玄の四男。 1582年(天正10年)3月11日、織田・徳川連合軍の甲州征伐により、天目山の田野で嫡男信勝・継室の北条夫人とともに自害。 勝頼父子の首級は、京都に送られ一条通の辻に晒された。 信玄や勝頼が帰依した妙心寺の南化玄興は、その首をもらい受けて妙心寺に手厚く葬ったのだという。 |
※ | 南化玄興は、武田信玄が恵林寺に招いた快川紹喜の弟子。 |
恵林寺焼き討ち〜信長公記が伝える甲州征伐〜 |
法泉寺の快岳周悦は、妙心寺の南化玄興から勝頼の歯髪を譲り受け、甲府に持ち帰ろうとするが・・・ 甲州征伐後、甲斐国は織田信長の支配下となり、織田勢の厳しい監視があって甲府に入ることができない。 ひとまず帯那郷へと向かったのだが、その動きを織田勢に気づかれてしまう。 快岳は、勝頼の歯髪を牛蒡の俵の中に隠して難を逃れたのだという。 勝頼の自害から3ヶ月後の6月2日早朝、明智光秀が京都の本能寺に滞在中の信長を襲撃(本能寺の変)。 信長が横死したことで、甲斐国では徳川家康と北条氏政・氏直が領地を争うことになるが(天正壬午の乱)、10月には両者が和睦。 乱後、甲斐国を領することとなった家康が、快岳を法泉寺の中興開山としたことで、勝頼の歯髪を法泉寺に葬ることができたのだと伝えられている。 勝頼の墓に植えられている桜は奈良の吉野山の桜と同じもので、目印のために植えられたのだとか・・・ |
妙心寺は、関山慧玄が開いた寺。 武田信玄は関山派の禅風を崇敬し、信玄が定めた甲府五山は全て臨済宗妙心寺派の寺院。 信玄の菩提寺となった恵林寺は、臨済宗円覚寺派の寺院として開かれたが、信玄が妙心寺派の寺院として再興している。 |
1575年(天正3年)の長篠の戦いで大敗した武田勝頼は、遠江の二俣城や高天神城を失い、家臣団の分裂もあって父信玄の残した領国を失っていった。 1581年(天正9年)には、織田・徳川連合軍を迎え撃つため、甲府の躑躅ヶ崎館から新府城に移ったのだが・・・ |
織田・徳川連合軍による甲斐侵攻を受け、1582年(天正10年)3月11日、天目山の麓の田野で自害した。 勝頼の終焉の地には、徳川家康の命により景徳院が建立されている。 |
山梨県甲府市和田町2595 JR中央本線甲府駅から徒歩約40分 甲府駅南口から一高経由のバスで塩部下車 徒歩約15分。 |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
|