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法泉寺(ほうせんじ)は、元徳年間(1329−1332)に武田氏七代当主の武田信武が創建した寺院。 開山は月舟周勲。 ただ、月舟周勲は師の夢窓疎石を開山とし、自らは二世と称したのだという。 十九代当主の武田晴信(信玄)は、快岳周悦を招いて保護し、甲府五山の一つに列している。 臨済宗妙心寺派。 山号は金剛福聚山。 本尊は釈迦如来。 |
1813年(文化10年)の建立。 木造八角輪蔵が置かれ、内部には鉄眼版一切経が納められている。 |
法泉寺を創建した武田信武は、安芸国守護の時に後醍醐天皇の建武の新政に反旗を翻した足利尊氏に従い、のちに甲斐国の守護となった。 尊氏の天龍寺の建立にも協力しているのだという。 1359年(延文4年)死去。 |
武田勝頼は武田信玄の四男。 1582年(天正10年)、織田・徳川連合軍の甲州征伐により、天目山の田野で自害。 京都に運ばれた首は一条通の辻に晒された後、信玄や勝頼が帰依していた妙心寺の南化玄興がもらい受けて妙心寺に葬ったのだという。 法泉寺には、快岳周悦が南化玄興から譲り受けた歯髪が葬られたのだと伝えられる。 武田勝頼の首級牛蒡の伝説 |
武田神社は、武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)が本拠とした躑躅ヶ崎館跡に建てられた神社。 |
勝頼の父・信玄は、1573年(元亀4年)、三河国侵攻中に病に倒れ、長篠城で療養した後、甲斐国へ撤退。 4月12日、甲府へ帰る途中の信濃国伊那谷で死去。 躑躅ヶ崎館の麓の土屋昌続邸に埋葬された(信玄火葬塚)。 3年後、菩提寺の恵林寺(甲州市)に改葬されている(信玄の墓)。 |
1575年(天正3年)の長篠の戦いで大敗した武田勝頼は、遠江の二俣城や高天神城を失い、家臣団の分裂もあって父信玄の残した領国を失っていった。 1581年(天正9年)には、織田・徳川連合軍を迎え撃つため、甲府の躑躅ヶ崎館から新府城に移ったのだが・・・ |
織田・徳川連合軍による甲斐侵攻を受け、1582年(天正10年)3月11日、天目山の麓の田野で自害した。 勝頼の終焉の地には、徳川家康の命により景徳院が建立されている。 |
甲州征伐で武田勝頼が滅んだことで武田の嫡流は滅亡するが、家康は穴山梅雪の嫡男・勝千代(武田信治)を武田氏当主とした。 勝千代は武田信玄の外孫。 しかし、1587年(天正15年)に勝千代が死去したため、側室の於都摩の方が産んだ万千代(武田信吉)に武田氏を継承させている。 於都摩の方は梅雪の養女。 ただ、1603年(慶長8年)、万千代が死去したことで武田氏は断絶した。 |
下山殿・おつまの方〜武田信吉を産んだ徳川家康の側室〜 |
山梨県甲府市和田町2595 JR中央本線甲府駅から徒歩約40分 甲府駅南口から一高経由のバスで塩部下車 徒歩約15分。 |
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