中世歴史めぐり

徳川氏発祥の地 松平氏発祥の地
家康生誕地 東照宮

徳川家康



下山殿・おつまの方
徳川家康の側室


編集:yoritomo-japan.com








 下山殿(しもやまどの)は、通称・於都摩の方(おつま)と呼ばれた徳川家康の側室。

 父は、武田家臣の秋山虎康。

 穴山信君(梅雪)の養女。

 信君の兄信嘉の妻だったという説もある。

 1582年(天正10年)の甲州征伐に際して、信君が織田信長に内通したことにより、信長の同盟者だった家康の側室になった。

 翌年には、家康の五男となる万千代(福松丸)を産んでいる。

 のちの武田信吉(松平信吉)。

 家康の三女・振姫(ふりひめ)も下山殿が産んだとする説がある。

 1591年(天正19年)、下野国で死去(享年24(28とも))。



甲州征伐





〜武田を継いだ武田信吉〜

 1582年(天正10年)3月の甲州征伐で武田勝頼が滅び、6月には本能寺の変で織田信長が横死。

 上洛していた穴山梅雪も宇治田原で横死。

 その後に起こった天正壬午の乱で武田の遺領は徳川家康が手に入れた。

 家康は、梅雪の嫡男・勝千代(武田信治)を武田氏当主としたが、1587年(天正15年)、勝千代が死去すると、於都摩の方が産んだ万千代(武田信吉)が武田の名跡を継承することに。

 梅雪の正室・見性院(武田信玄の娘)が後見を務めたのだという。

 しかし、1603年(慶長8年)9月11日、21歳で死去。

 豊臣秀吉の正室・高台院の甥の木下勝俊の娘を娶っていたが、子はなかったため武田家は断絶してしまう。



本能寺の変


伊賀越え


天正壬午の乱









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