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岡崎城(おかざきじょう)は、三河国守護だった仁木氏の守護代・西郷稠頼が1452年(享徳元年)に築いたことに始まる。 文明年間(1469−1487)、三河松平家三代当主の松平信光が城主の西郷頼嗣を破り、信光の五男光重が西郷氏の娘婿となって城主となり岡崎松平家が興る。 1531年(享禄4年)、三河松平家七代当主で松平宗家三代当主の松平清康が岡崎松平家を破って城主となり城郭を整備。 清康に敗れた岡崎松平家三代当主の松平昌安は、三河国額田郡大草郷に退去している(大草松平家)。 1535年(天文4年)、桜井松平家の松平信定に占拠されたこともあったが・・・ 1542年(天文11年)、清康を継いだ松平広忠に嫡男が誕生。 名は竹千代(のちの徳川家康)。 |
※ | 大草松平家や桜井松平家との争いは、のちの三河一向一揆まで引きずることとなる。 |
松平家康に敵対した桜井松平家と大草松平家 |
竹千代は、松平広忠と母の於大の方が鳳来寺に祈願して、「寅の年の寅の日の寅の刻」に授かったのだと伝えられている。 のちに鳳来寺には鳳来山東照宮が建立されている。 |
鳳来寺 (新城市) |
鳳来山東照宮 (新城市) |
徳川家康は寅年ではなく卯年生まれという説 |
松平氏は駿河国の今川氏に従っていたため、竹千代は6歳で今川氏の人質として駿府で過ごすこととなり、1549年(天文18年)に広忠が死去すると、岡崎城は今川氏の支城となってしまうが・・・ 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破ると、松平元康(竹千代)は岡崎城を奪還して今川氏から独立。 幼い頃に生き別れとなっていた母の於大の方を迎え入れた。 1562年(永禄5年)には清州城で信長と同盟を結び(清州同盟)、三河統一へと動き出す。 同年の上ノ郷城合戦で捕らえた鵜殿長照の二人の子と、駿府で人質となっていた正妻の瀬名姫(築山殿)・嫡男の竹千代(信康)・長女の亀姫との人質交換を成功させている。 1563年(永禄6年)には義元の一字をもらって名づけられた「元康」を「家康」に改名。 同年、三河一向一揆が起こるが、翌年には鎮圧し、三河国支配を安定的なものとする。 1567年(永禄10年)、遠江国に侵攻して今川氏の曳馬城(引間城)を落とし、翌年には掛川城を開城させて遠江国を手中にすると・・・ 同年、同盟者の信長は美濃攻略に成功し、新たに岐阜城を築き、「天下布武」を政策に掲げている。 1570年(元亀元年)、岡崎城から曳馬城に移り、新たに浜松城を築いて本拠とし、岡崎城には正室の築山殿が産んだ嫡子・松平信康を入城させたが・・・ 1579年(天正7年)、謀反の疑いをかけられた信康が遠江国の二俣城で切腹すると城代が置かれた。 |
人質となった竹千代〜織田・今川の人質だった徳川家康〜 元康から家康に改名・松平から徳川に改姓 |
長篠城は、家康と武田信玄が争奪戦を繰り広げた城。 信玄の死後、長篠城を手に入れた家康は、1575年(天正3年)2月、奥平貞昌を城主とした。 その年の5月、長篠城は武田勝頼に包囲されるが、貞昌の家臣・鳥居強右衛門の活躍もあって武田軍の攻撃を凌ぎきったのだという。 家康は5月14日に岡崎で織田信長と合流して援軍に向かい、5月21日、武田勝頼を破っているが・・・ 勝頼は岡崎城を制圧する予定だったのだという・・・ |
鳥居強右衛門〜命を懸けて絶体絶命の長篠城を救った足軽〜 大岡弥四郎の謀反〜岡崎城を制圧する予定だった武田勝頼〜 |
二俣城は、浜松城の防衛拠点となった城で、家康と武田信玄の激しい争奪が繰り広げられた城。 1579年(天正7年)、家康は武田勝頼と内通していたとして築山殿を殺害、二俣城で嫡男の信康を切腹させたのだと伝えられる。 |
築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 長勝院・お万の方〜結城秀康を産んだ徳川家康の側室〜 西郷局・お愛の方〜徳川秀忠を産んだ徳川家康の側室〜 |
萬松院 (小田原市) |
西念寺 (東京都新宿区) |
萬松院は、信康が自害した当時、二俣城の城主だった大久保忠世が、のちに小田原城に入った時に、信康の菩提を弔うために建立した寺。 西念寺は、信康の介錯を命じられたという服部半蔵が信康の慰霊のために建てた安養院を前身とする寺。 |
松平信康の介錯を命じられた服部半蔵 |
1582年(天正10年)6月2日未明、本能寺で明智光秀の謀反により織田信長が討たれた(本能寺の変)。 この前月、家康は安土城で信長の接待を受けている。 その後、信長の勧めで京都や堺を遊覧していた家康は、信長が討たれたことを知ると、松平氏ゆかりの知恩院で自刃しようと考えたらしい。 しかし、家臣に説得されて、伊賀越えで三河国に辿り着き、岡崎城に帰還することができたのだという。 その後に起こった天正壬午の乱を鎮めた家康は、三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国を領する大大名となった。 |
安土饗応〜織田信長・徳川家康・明智光秀と本能寺の変〜 |
住吉神社は、佃煮発祥の地に建つ社。 本能寺の変後、伊賀越えで三河国を目指す家康を救ったのは、摂津国佃島の森孫右衛門だったのだとか・・・ |
1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い後、関白となった豊臣秀吉は、1586年(天正14年)、家康を臣従させるため妹の朝日姫(旭姫)を岡崎城に下して家康の正室(継室)としている。 さらに、家康がなかなか上洛しないため母の大政所を岡崎に人質として送っている。 |
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐後、家康が関東に移封されると、岡崎城は豊臣氏の城となるが・・・ 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに勝利すると、「神君出生の城」として神聖化され譜代大名・親藩が城主となった。 |
1873年(明治6年)、廃城となり天守以下の建物が撤去され、現在は岡崎公園として整備されている。 現在の天守は1959年(昭和34年)に復興された |
徳川家康・本多忠勝・天神地祇・戦没者を祭神とする神社。 西郷稠頼が岡崎城を築いたときに龍神が現れたことから祀られたのが始まりで、岡崎城は龍城とも呼ばれていた。 |
本多忠勝は徳川四天王のひとりで、武田信玄に「家康の家臣にしておくのはもったいない」と称賛された武将。 |
三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗した家康が描かせた「徳川家康三方ヶ原戦役画像」を基にして製作された石像。 ただ、近年の研究では・・・ 「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、紀州徳川家から尾張徳川家に伝わった家康の御影とされている。 |
徳川家康の「しかみ像」〜実は家康の御影だった〜 |
毎時00分・30分に家康の人形が登場して能を舞い、遺訓を語る。 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし・・・」 |
大手門を出た国道1号線沿いにある宝篋印塔は、源義経との悲恋に死んだ浄瑠璃姫の墓といわれる。 |
三河国加茂郡松平郷は、徳川家康が祖と仰ぐ新田義重の子孫・親氏が辿り着いた地。 親氏は松平を名乗り、徳川将軍家の礎を築いた。 |
松平東照宮 (豊田市) |
高月院 (豊田市) |
松平東照宮は、松平郷の親氏の館跡に創建された家康と親氏を祀る神社。 高月院は親氏と松平氏二代当主の泰親の菩提寺。 |
徳川家の三つ葉葵は、賀茂氏が氏神としていた賀茂神社の神紋に由来するものらしい。 家康は、新田氏の末裔ではなく賀茂氏の末裔なのかも・・・ |
大樹寺は岡崎城の北にある徳川将軍家と松平家の菩提寺。 1616年(元和2年)に亡くなった徳川家康は、 「@遺体は久能山に埋葬すること、A葬儀は江戸の増上寺で行なうこと、B位牌は三河国の大樹寺に納めること、C下野国の日光山に小堂を造営すること、D京都の南禅寺の金地院に小堂を造営すること」 を遺言していたのだという。 |
伊賀八幡宮は松平氏の守護神として創建され、三代将軍徳川家光が家康を合祀している。 |
大林寺には、徳川家康の祖父松平清康・父広忠・清康夫人春姫の墓がある。 |
松應寺は、徳川家康の父広忠が葬られた地に創建された寺。 |
瀧山東照宮は、三代将軍徳川家光が瀧山寺境内に創建。 久能山東照宮・日光東照宮とともに三大東照宮と呼ばれている。 |
菅生神社は、徳川家康をはじめとする歴代岡崎城主の信仰を集めた岡崎最古の神社。 |
六所神社は、徳川家康誕生時に産土神とされた神社。 |
増上寺の安国殿に祀られている「黒本尊」(くろほんぞん)は、家康の家康の守り本尊だった阿弥陀如来立像。 この阿弥陀如来に祈願して三河一向一揆を鎮めることができたことら譲り受け、岡崎城に置いたのだとか。 源義経が三河国岡崎の長者に預けていたものなのだという。 |
愛知県岡崎市康生町561 名鉄「東岡崎駅」から徒歩約15分 |
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