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長勝院(ちょうしょういん)は、於万の方(おまんのかた)・於古茶(おこちゃ)・小督局(こごうのつぼね)とも呼ばれた徳川家康の側室。 父は、三河国・智(池)鯉鮒大明神(ちりふだいみょうじん・現在の知立神社)の神職・永見貞英。 母は、水野忠政の娘。 家康の母・於大の方の姪であり、家康の従妹。 |
於万の方は、家康の正室・築山殿の奥女中だったが、家康のお手付きとなって懐妊。 しかし、築山殿に側室として認められていなかっため、岡崎城を出され、遠江国敷知郡宇布見村の中村正吉の屋敷で出産。 正妻は、側室として承知するか否かの権限を持っていたのだとのだとか・・・ 城を出された於万の方を中村正吉に預けたのは、家康の命を受けた本多重次(ほんだしげつぐ)だった。 於万の方の懐妊を知って激怒した築山殿が、於万の方を裸にして庭の木に縛り付けたとき、本多重次が助けて中村正吉に匿わせたという逸話もある・・・ |
※ | 於万の方が仕えていたのは岡崎城ではなく浜松城だったという説もある。 |
※ | 築山殿の処分は単なる嫉妬というものではなく、正室としての権限を示したもの。 |
岡崎城 |
浜松城 |
当時、築山殿は岡崎城にいたが、家康は嫡男の信康に岡崎城を譲り浜松城を拠点としていた。 |
於万の方が預けられた中村家は、源範頼の子正範を祖としているのだという。 範頼は源頼朝の異母弟。 遠江国の蒲御厨で生まれ育ったのだという。 蒲神明宮は蒲御厨に創建された社。 |
1574年(天正2年)2月8日に生まれたのは双子。 一人は知立神社(知立神社)の神職となった永見貞愛(ながみさだちか)。 当時、双子が忌み嫌われていたため、貞愛は夭折したことにされて長勝院の実家に預けられ、叔父の永見貞親から神職を譲り受けたのだという。 もう一人は於義伊(於義丸:のちの結城秀康)。 家康に認知されずに育てられるが、家康に面会も叶わない異母弟を憐れんだ松平信康のとりなしで、3歳の時に初めて対面したのだと伝えられている。 ただ、認知されたのは築山殿の死後のこと。 |
1579年(天正7年)、甲斐の武田氏と内通していたとして、築山殿が殺害され、松平信康が切腹させられた。 そのため、家康の後継者は次男の於義伊(於義丸)となるはずだったが・・・ 於義伊は、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い後、人質として豊臣秀吉の養子となり、元服後に秀康に改名。 これによって、西郷局(お愛の方)が産んだ三男の長松(のちの徳川秀忠)が後継者となる。 |
※ | 秀吉は、於大の方の三男定勝を要求したが、於大の方に反対されたのだという。 |
1590年(天正18年)、家康が関東移封となり江戸城に入ると、下総国の結城晴朝の姪・江戸鶴子と結婚し、婿養子となって結城氏を継いだ。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、越前国北ノ庄を与えられ、於万の方も同行。 1607年(慶長12年)、北ノ庄で死去(享年34)。 秀康の死後、於万の方は出家し、1619年(元和5年)、北ノ庄で死去(享年72)。 戒名は長勝院松室妙載大姉。 もう一人の子・貞愛は、1604年(慶長9年)に死去している(享年31)。 |
福井城は、越前国北ノ庄に秀康が築いた城。 |
福井城は、柴田勝家の北ノ庄城の跡地に築かれた城だが、勝家の北ノ庄城を改築したものなのか、新たに別の城として築かれたのかは解釈が分かれている。 北ノ庄城は、勝家と正室のお市の方が最期を遂げた城。 |
〜信康が切腹させられ、秀康が養子に出されて後継者となった秀忠〜 |
築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 長勝院・お万の方〜結城秀康を産んだ徳川家康の側室〜 西郷局・お愛の方〜徳川秀忠を産んだ徳川家康の側室〜 於義丸〜徳川家康の次男・結城秀康〜 大岡弥四郎の謀反〜岡崎城を制圧する予定だった武田勝頼〜 |
結城氏は、源頼朝に仕えた結城朝光を祖とする。 称名寺は朝光の菩提寺。 |
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