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称名寺は、結城朝光の菩提寺。 山号は新居山。 浄土真宗本願寺派。 朝光は、1214年(建保2年)頃から関東での布教のため常陸国に草庵を結んでいた親鸞に帰依し、下野国薬師寺新居郷に念仏堂を建立。 1225年(嘉禄元年)、念仏堂を結城本郷西の宮に移転して、真仏を招いて称名寺を建立した。 寺号の称名は、朝光の法名「称名寺殿日阿弥陀仏」からとったのだという。 真仏は、親鸞の「関東二十四輩」の一人で、称名寺は「二十四輩寺院」の一つ。 元禄年間に現在地へ移転。 親鸞の直筆といわれる片仮名交じりの「往生要集」の一節が残されている(県指定文化財)。 |
結城朝光は、小山政光と源頼朝に乳母を務めた寒川尼(寒河尼)の子。 頼朝から野木宮合戦の恩賞として結城の地を与えられ、結城氏の祖となった。 1254年(建長6年)2月24日死去(87歳)。 |
※ | 『吾妻鏡』では、「寒川尼」は「寒河尼」と記されている。 |
中門は、結城氏の初代朝光から四代時広までの墓所入口の御霊屋の門だったことから御霊屋門と呼ばれる。 |
1207年(建永2年)、後鳥羽上皇は専修念仏を停止(ちょうじ)し、法然を土佐国へ、親鸞を越後国へ流罪とした(承元の法難)。 1211年(建暦元年)、二人は赦免されるが法然は翌年京都で入滅。 その頃の親鸞の動向については不明だが、1214年(建保2年)には、関東での布教のため越後国から信濃国の善光寺、上野国を経て常陸国へ向かった。 東国での布教活動は20年間にわたって行われたといわれ、蓮如の孫顕誓(けんせい)が著した『反古裏書』には、常陸国下妻の三月寺小嶋に3年ばかり、稲田郷に10年ばかり滞在したのち、相模国足下郡江津の真楽寺や鎌倉に滞在したことが記されているらしい。 |
親鸞は、北条泰時の要請によって鎌倉に入り「一切経の校合」に参加したともいわれている。 校合とは、書写したものに誤りがないか確認すること。 『吾妻鏡』によると、一切経の書写は、1235年(文暦2年)2月の四代将軍藤原(九条)頼経の発願によって建立された明王院の上棟時と、1237年(嘉禎3年)7月の北条政子の十三回忌供養に際して行われている。 後者の一切経は、1238年(嘉禎4年)7月11日、園城寺の唐院灌頂堂に納められている。 どちらの校合に関わった可能性があるのか・・・ 親鸞がいつ帰洛したのか定かではないが、東国での布教活動が1214年(建保2年)からの20年だったと考えると、明王院上棟にあわせて書写された一切経の校合に関与したのかもしれない。 |
成福寺 (鎌倉) |
真楽寺 (小田原) |
本願寺 (西本願寺) |
大谷本廟 |
称名寺は浄土真宗本願寺派。 本願寺は、浄土真宗開祖の親鸞の廟堂(墓地)の創建に始まる。 徳川家康が教如に新たな寺地を寄進したことで、東西に分立している(参考:東本願寺)。 |
福井城は、徳川家康の次男・結城秀康が築いた城。 秀康は結城氏十七代当主・結城晴朝の姪・江戸鶴子と結婚し、婿養子となって結城氏を継いだ。 1601年(慶長6年)、越前国北ノ庄へ移封となると福井城を築城。 慶長9年には松平に服し、結城家の家督は秀康の五男・直基が継いでいる。 |
結城市大字結城152 JR水戸線「結城駅」から徒歩10分 |
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60年に一度の祭礼 |
源頼朝も祀る! |
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