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小山政光は、武蔵国埼玉郡太田荘を本拠とした藤原秀郷流太田氏の庶流。 平安時代末期、政光は下野国小山荘を本拠とし、小山氏を名乗った(小山氏の祖)。 小山城(祇園城)は、1148年(久安4年)に政光が築いたのだと伝えられている。 後妻の寒河尼(寒川尼)は源頼朝の乳母。 生誕年も没年も不明。 子に頼朝を支えた小山朝政・長沼宗政・結城朝光、猶子に宇津宮頼綱がいる。 |
鷲神社は、小山氏の居城の一つ鷲城跡に建つ社。 政光が武蔵国の鷲宮神社を勧請したのだという。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)10月2日、挙兵して鎌倉を目指す頼朝が武蔵国隅田宿に布陣すると、そこへ14歳の末子を連れてやってきた寒河尼(寒川尼)。 子を側近として奉公させたいと願うと、頼朝は烏帽子親となって元服させたのだという(のちの結城朝光)。 この時、政光は大番役で京都にいたが、寒河尼の行動によって小山氏は頼朝に従うことになったのだとか。 |
思川を望む堤防上に建てられた小山政光と寒川尼の像。 |
※ | 『吾妻鏡』では、「寒川尼」は「寒河尼」と記されている。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1189年(文治5年)7月、奥州征伐のため鎌倉を発った頼朝は、7月25日に下野国古多橋駅に到着。 宇都宮二荒山神社に戦勝祈願した後、宿所に入った頼朝に政光が弁当を献上。 その時、紺の直垂の上下を着た者が頼朝の前に控えていたので、不思議に思った政光が誰なのかを尋ねると、 頼朝は「本朝無双の勇士熊谷小次郎直家だ」と答えた。 政光の子朝光が「どのような手柄で勇士の号を与えたのか」を問うと、 頼朝は「一ノ谷の戦いで父直実とともに命を顧みず戦ったからだ」と直実父子の働きを褒めたのだという。 すると、政光は大いに笑って 「主君のために命を捨てるのは、直家に限ったことではありません。 直家ような郎党を従えていない者は自身で勲功をあげなければなりませんが、政光のような大名は郎党を派遣して忠義を尽くすだけです・・・と語り、 ただ、そのような事であれば、今度の戦では自身で戦って、本朝無双の勇士と褒めてもらうように」 と子の朝政・宗政・朝光と猶子の頼綱らに命じたのだという。 |
間々田八幡宮 (小山) |
二荒山神社 (宇都宮) |
間々田八幡宮には頼朝手植えの松(三代目)が伝えられ、二荒山神社の参拝は『吾妻鏡』に詳しく記されています。 |
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