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近江国の石山寺の座主だったという藤原宗円。 前九年の役での源頼義の苦戦が伝えられると、奥州まで不動明王座像を携えて戦勝を祈願し、戦を勝利に導いたのだと伝えられ、その功により宇都宮の地を与えられたのだという。 宇都宮氏は、藤原宗円が下野国一ノ宮の宇都宮二荒山神社の社務職となり、孫の朝綱が宇都宮氏を名乗ったことに始まる。 社務職とは、神社の社務を統括する最高責任者。 |
※ | 石山寺ではなく園城寺の僧だったという説もある。 |
※ | 宇都宮氏は、藤原道長の兄道兼を祖とするという説も・・・ |
宗円が奥州まで携えていった不動明王像は、源頼光の願いにより、円覚(多田満仲の子)が吉野山中に籠って彫り上げたとされるもので、多気山不動尊の本尊となっている。 |
宇都宮二荒山神社は、仁徳天皇の時代に創建された古社で、源頼朝も崇敬した社。 |
宗綱の母は、宗綱を懐妊中に夫の藤原兼仲が没したため、夫の兄弟の藤原宗円の妻となって宗綱を産んだ。 宗綱は常陸国八田を政治基盤としていたといわれる。 娘の寒河尼は源頼朝の乳母を務め、四男の知家は二代将軍源頼家の時代に採用された十三人の合議制の一人となった。 頼朝の挙兵を助けた佐々木経高の母は、宗綱の娘ともいわれる。 宗綱の代から宇都宮二荒山神社と日光山(日光山輪王寺・日光二荒山神社)の社務職を兼ねるようになる。 |
日光山輪王寺 |
日光二荒山神社 |
1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵時には京都にあったため、平清盛に強制的に留められていたが、1184年(元暦元年)5月24日、密かに京都を抜け出し頼朝のもとに参上。 1184年(元暦元年)、頼朝から社務職と本領を安堵され、加えて伊賀国壬生野郷の地頭職を拝領した。 1189年(文治5年)の奥州征伐で、頼朝は朝綱が社務職を務める宇都宮社(二荒山神社)で戦勝を祈願している。 1192年(建久3年)、子の業綱が亡くなると出家。 1194(建久5年)5月20日、祖父朝綱が公田を掠め取ったとして訴えられ、7月28日には、朝綱が土佐国、孫の頼綱と朝業もそれぞれ豊後国・周防国へ流罪と決定される。 ただし、頼朝の意向で配流地には赴かなかったともいわれる・・・ 1204年(元久元年)8月6日没。 頼朝の挙兵を助けた佐々木定綱は、朝綱の娘を妻としたとという説がある。 |
宇都宮稲荷神社は、鎌倉の朝綱の居館に勧請された社。 |
宇都宮家の墓所は、朝綱が初代宗円・二代宗綱の墓を築いたのが始まり。 |
地蔵院 (益子町) |
綱神社 (益子町) |
地蔵院は、朝綱が建立した寺院で、かつては尾羽寺と称されていた。 地蔵院に隣接する綱神社も朝綱の創建。 |
成綱と呼ばれることも。 子の朝業は塩谷朝義の娘婿となって塩谷氏を継ぎ、嫡男の頼綱は小山政光の猶子となっている。 1192年(建久3年)2月24日、父の朝綱より先に亡くなった。 |
小山政光の猶子。 1194(建久5年)5月20日、祖父朝綱が公田を掠め取ったとして訴えられ、7月28日には、祖父の朝綱が土佐国、頼綱が豊後国、弟の朝業が周防国へ流罪と決定される。 ただし、頼朝の意向で配流地には赴かなかったとも・・・ 1205年(元久2年)閏7月、姑の牧の方(北条時政の後妻)が三代将軍源実朝を廃して娘婿の平賀朝雅を将軍にしようとする企てが発覚(牧の方の陰謀)。 8月7日には頼綱謀反の報が鎌倉に届いた。 北条政子邸に集まった北条義時・大江広元・安達景盛らは、小山朝政を召して頼綱を追討するよう命じたが、朝政は頼綱と義兄弟である事を理由に断っている。 8月11日、頼綱が書いた弁明書に朝政が一筆添えて北条義時に提出。 8月17日、出家して蓮生と名乗った頼綱は、反逆の心がないことを伝えるため宇都宮を発ち、8月19日、義時邸を訪問したが対面はできず、結城朝光を通して髻を届けている。 その後罪を問われなかった頼綱は、熊谷直実の勧めで法然に帰依。 法然没後は弟子の証空に師事したが、1241年(建保2年)5月7日、幕府は前月比叡山の衆徒に焼かれた園城寺を復興するため、18人の再建担当者を決定し、頼綱はその一人として山王社の本殿と拝殿の再建を命じられている。 1221年(承久3年)の承久の乱では、北条義時・大江広元・三善善信・二階堂行村・八田知家・小山朝政らの長老とともに上洛せず鎌倉に居残った。 その後も幕府に仕え、宇都宮氏の政治的基盤を築いた。 1259年(正元元年)11月12日、京都で死去。 |
清巌寺は、頼綱が建てた念仏堂を起源とする寺院。 実信房蓮生法師と刻まれた墓碑がある。 |
歌人としても知られる頼綱。 藤原定家と親交をもっていた関係で、1229年(寛喜元年)、二荒山神社に神宮寺が建てられたときには、藤原定家と藤原家隆が襖を飾る障子歌を贈ったのだという。 |
1227年(嘉禄3年)、比叡山の僧兵による浄土宗への弾圧から法然の遺骸を守るため、東山の法然廟所(知恩院)から嵯峨の二尊院へ遺骨が移された際、頼綱(蓮生)は弟たちや六波羅の武士とともに護衛にあたっている。 翌年、遺骨は粟生野の光明寺に遷されている。 |
1235年(嘉禎元年)、藤原定家が頼綱に贈った色紙が『小倉百人一首』の原型なのだという。 |
『吾妻鏡』によれば、平重衡の焼討によって焼失した東大寺の再興に助力していた源頼朝は、1194年(建久5年)、大仏殿内の二菩薩と四天王の造像を御家人の負担としている。 観音菩薩像・宇都宮朝綱、虚空蔵菩薩像・中原親能、増長天像・畠山重忠、持国天像・武田信光、多聞天像・小笠原長清、広目天像・梶原景時。 |
宇都宮の石の里にある大谷寺は、弘法大師作と伝わる日本最古の石仏を本尊する寺。 |
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