鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉殿の13人 二代執権北条義時
特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編 特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編



歴史めぐり源頼朝
〜平重衡の南都焼討〜








 1180年(治承4年)5月30日、平清盛は、都を福原(現神戸市)に遷すことを発表し、6月2日には遷幸が強行されました。

 その前年には、後白河法皇を幽閉し、娘徳子が生んだ安徳天皇を即位させ、平家による独裁政治を始めていた清盛でしたが、こうした行動は、貴族・寺社・武士からの反発を受け、全国的な反平家勢力の蜂起へとつながっていくことになります。

 8月17日には源頼朝挙兵

 伊豆国の目代山木兼隆を討ち取った頼朝は、相模国に進軍し、石橋山の戦いでは平家方の大庭景親らに敗れますが、真鶴から船出して安房へ渡り、軍勢を整えて、10月7日、鎌倉に入ります。

 10月20日には、富士川で平家軍を敗走させました。

 一方、福原遷都を強行した清盛は、11月23日、還都を発表し、26日には安徳天皇後白河法皇をはじめ平家一門も京都に帰っています。


 そうした情勢の中の1180年(治承4年)12月25日、清盛は、東大寺興福寺の反平家勢力を一掃するため、平重衡を南都に向かわせ、28日には南都を焼き尽くしてしまいます。

 この事件で 清盛は「仏敵」とされ、平家は四面楚歌の状態に置かれてしまいました。


南都焼討の半月ほど前、重衡は園城寺(三井寺)も焼き払っています。



東大寺(奈良市)
リンクボタン東大寺
(奈良市)
興福寺(奈良市)
リンクボタン興福寺
(奈良市)

 東大寺の再興に積極的な助勢を行った頼朝は、のちの1195年(建久6年)に上洛し、大仏殿の落慶供養に参列しています。


東大寺転害門
リンクボタン転害門

 東大寺転害門は、平重衡の南都焼討から免れた貴重な遺構。


南都焼討と東大寺の再興 〜重源と源頼朝〜









〜鎌倉へ送られた平重衡〜

 焼討によって東大寺興福寺を焼き払った平重衡は、1183年(寿永2年)2月、一ノ谷の戦いで捕えられ、鎌倉へ送られてきます。
 
 頼朝は「一族の冥福を祈るように」と重衡に阿弥陀像を与えたといわれ、鎌倉・教恩寺阿弥陀像がそれだと伝えられています。

 また、頼朝に気に入られた重衡は、侍女の千手の前を与えられ、工藤祐経が鼓を、千手の前が琵琶を、重衡が笛を吹くという酒宴が催されたといいます。

 1185年(元暦2年)3月、平家が壇ノ浦で滅亡すると、重衡は南都に引き渡され、木津川で斬首されました。



教恩寺(鎌倉市)
リンクボタン教恩寺
(鎌倉市)


一の谷古戦場
リンクボタン一ノ谷古戦場
(神戸市須磨区)
平重衡とらわれの松跡
リンクボタン平重衡
とらわれの松跡

(神戸市須磨区)




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源頼朝









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