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教恩寺(時宗)は、一ノ谷の戦いで捕らえられた平清盛の五男重衡が信仰した阿弥陀如来を本尊とする寺。 重衡は、南都焼討によって、奈良の東大寺や興福寺を焼いた武将。 一ノ谷の戦いで捕らえられて鎌倉に送られてきた際に、源頼朝より一族の冥福を祈るように阿弥陀像を与えられたのだという。 その像が教恩寺の本尊で、運慶作と伝えられている。 もともとこの地には光明寺末の善昌寺があったが、廃寺となったため、1678年(延宝7年)、貴誉上人によって光明寺境内にあった北条氏康建立と伝わる教恩寺が移築されたのだといわれている。 その後、浄土宗より時宗に改宗したと考えられている。 |
鎌倉観音巡礼第12番札所 (聖観世音) |
開山:知阿
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開基:北条氏康
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本尊:阿弥陀如来三尊
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境内に置かれている旧鬼瓦には、時宗の「折敷に三」の紋。 源頼朝が酒宴の席で、折敷に「一」・「二」・「三」と書き、「一」を自分の前に、「二」を北条時政の前に、「三」を河野通信の前に置いたことから、河野家の家紋が「折敷に三」となったのだといわれている。 時宗開祖の一遍は、伊予の河野氏の出身。 |
時宗総本山遊行寺(清浄光寺) 鎌倉の時宗の寺 |
源頼朝から与えられた「阿弥陀如来像」に深く帰依した平重衡。 往生できるよう祈願すると阿弥陀像が三度うなずいたのだとか・・・ かつて、教恩寺の寺宝の中には、重衡と千手前(源頼朝の侍女)が酒を酌み交わしたという杯があったといわれ、黒の漆塗りで、梅の蒔絵が施してあった杯だったと伝えられている。 重衡が鎌倉に送られてきたとき、籠堂(こもりどう)が建立され、阿弥陀三尊が安置されたともいわれ、その堂が教恩寺の前身とする説もある。 |
東大寺 |
興福寺 |
1180年(治承4年)12月25日、平清盛は重衡を南都に派遣。 12月28日、重衡は南都を焼討ちし、東大寺・興福寺を焼き尽くした。 |
南都焼討と東大寺の再興〜重源と源頼朝〜 |
一ノ谷古戦場 |
平重衡 とらわれの松跡 |
1184年(寿永3年)2月7日、平家一門は、源範頼と源義経に拠点としていた一ノ谷を攻められ、海上に逃れた。 重衡は、生田の森を守備していたが、梶原景時らに捕えられている。 |
鎌倉市大町1−4−29 0467(22)4457 鎌倉駅東口から徒歩7分 |
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