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興福寺は、藤原氏の氏寺で、法相宗の大本山。 南都七大寺の一つ 本尊は釈迦如来。 669年(天智天皇8年)に藤原鎌足が重病となった折、夫人の鏡女王がその回復を祈願して、山背国山階(現在の京都市山科)に創建した山階寺(やましなでら)をその起源としている。 その後、山階寺は藤原京に移り、厩坂寺(うまやさかでら)と称していたが、710年(和銅3年)の平城京遷都の際に、鎌足の子不比等が現在地に移し興福寺とした。 仏師運慶は、この寺を拠点として活動していた。 |
興福寺 東大寺 西大寺 薬師寺 元興寺 大安寺 法隆寺 |
2018年(平成30年)10月7日〜11日にかけて、301年ぶりに再建された中金堂落慶法要が営まれた。 |
〜古代から中世にかけて 大和国を支配した興福寺〜 |
興福寺は、奈良・平安時代を通じて、天皇や藤原摂関家の保護を受け、堂塔が次々に建てられ寺勢が盛んになった。 京都清水寺を創建したのは興福寺の僧延鎮だと伝えられている。 平安時代には春日大社の実権を手にし、大和国のほとんどの荘園を領して、事実上大和国を支配し、盛時には百以上の塔頭があった。 |
藤原道長 vs 興福寺〜源頼親・蓮聖・定澄と道長〜 |
源頼朝が鎌倉に武家政権を樹立した後も、大和国は多くの僧兵を抱えて強大な力を持っていた興福寺の支配下にあって、鎌倉・室町時代を通じて幕府は守護を置くことができなかった。 その後、1595年(文禄4年)の太閤検地によって、春日社興福寺合体の知行として2万1千余石とされている。 |
※ | 『吾妻鏡』によると、1180年(治承4年)、平家打倒の挙兵をした以仁王や源頼政も興福寺や東大寺の僧兵をあてにしていた。 |
※ | 『吾妻鏡』によると、1216年(建保4年)12月8日、興福寺の信賢が春日大社の領地(伊賀国壬生荘)を宇都宮頼綱が横取りしているという訴えを起こしている。 |
※ | 『吾妻鏡』によると、1236年(嘉禎2年)10月5日、北条泰時は興福寺の衆徒が蜂起したため、臨時的に大和国に守護を置き、多数の地頭を送り込んで鎮圧している。 この前年から、興福寺は石清水八幡宮と境界問題で争いを続けていた。 北条泰時と南都:興福寺の僧兵 |
金堂、五重塔をはじめとする興福寺境内の建築物・施設などをご紹介。 |
猿沢池は、749年(天平21年)に興福寺の放生池として造営された。 1180年(治承4年)、反平氏勢力の一つだった南都(東大寺・興福寺)に対し、平清盛は、なるべく和平的に解決しようとして妹尾兼康に兵500をつけて派遣したが、南都の大衆は兼康の兵60余人の首を猿沢池に並べたという。 『平家物語』は、この行動が清盛の南都攻撃につながったと伝えている。 そして、この年の12月28日、清盛に派遣された平重衡の南都焼討が決行され、東大寺や興福寺が焼け落ちた。 その後、興福寺は、信円と貞慶によって復興されている。 |
2025年、 鎌倉復興期の北円堂が再現される! |
〜義経のために祈祷し、 頼朝に呼び出された聖弘〜 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1187年(文治3年)、源頼朝は、関東に反逆して逃亡した源義経を匿い、義経のために祈祷を行っていた興福寺の周防得業聖弘(すおうとくぎょうしょうこう)を鎌倉に呼び出し尋問した。 それに対し聖弘は、 「義経が師檀のよしみで頼ってきたので一時匿ったが、義経を諫めて送り出した。祈祷は義経の逆心を宥めるもので、罪に問われるものではない」 と答え、さらに 「関東が安全でいられるのは義経の武功によるものであるにも拘わらず、讒言を受けて恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然。 義経を呼び戻して和解し、兄弟で水魚の交わりをする事が国を治めることだ」 と説いた。 その態度に感心した頼朝は、聖弘に勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を命じたという。 |
源義経を匿った興福寺と鎌倉に呼び出された聖弘 |
義経が興福寺で匿われていたのは、1186年(文治2年)9月頃。 その前の5月から閏7月にかけては、比叡山に匿われていた。 |
春日大社に伝えられている「義経籠手」は、聖弘が住坊としていた塔頭の勧修坊に残されていたのだという。 |
京都東福寺は、奈良最大の東大寺と、奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえて付けられた寺名。 |
奈良市登大路町48番地 JR奈良駅から市内循環バス「県庁前」下車すぐ。 近鉄奈良駅から徒歩5分。 |
興福寺は世界文化遺産 (古都奈良の文化財) |
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