|
宇都宮頼綱は、下野宇都宮氏の五代当主。 源頼朝の乳母を務めた寒河尼に預けられ、尼の夫小山政光の猶子となった。 1194(建久5年)5月20日、祖父朝綱が公田を掠め取ったとして訴えられ、7月28日には、祖父の朝綱が土佐国、頼綱が豊後国、弟の朝業が周防国へ流罪と決定される。 ただし、頼朝の意向で配流地には赴かなかったとも・・・ 1205年(元久2年)閏7月、姑の牧の方(北条時政の後妻)が三代将軍源実朝を廃して娘婿の平賀朝雅を将軍にしようとする企てが発覚(牧の方の陰謀)。 8月7日には頼綱謀反の報が鎌倉に届いた。 北条政子邸に集まった北条義時・大江広元・安達景盛らは、小山朝政(政光の子)を召して頼綱を追討するよう命じたが、朝政は頼綱と義兄弟である事を理由に断っている。 8月11日、頼綱が書いた弁明書に朝政が一筆添えて北条義時に提出。 8月17日、出家して蓮生(れんしょう)と名乗った頼綱は、反逆の心がないことを伝えるため宇都宮を発ち、8月19日、義時邸を訪問したが対面はできず、結城朝光(政光の子)を通して髻を届けている。 その後罪を問われなかった頼綱は、熊谷直実の勧めで法然に帰依。 法然没後は弟子の証空に師事したが、1241年(建保2年)5月7日、幕府は前月比叡山の衆徒に焼かれた園城寺を復興するため、18人の再建担当者を決定し、頼綱はその一人として山王社の本殿と拝殿の再建を命じられている。 1221年(承久3年)の承久の乱では、北条義時・大江広元・三善善信・二階堂行村・八田知家・小山朝政らの長老とともに上洛せず鎌倉に居残った。 その後も幕府に仕え、宇都宮氏の政治的基盤を築いた。 1259年(正元元年)11月12日、京都で死去。 |
頼綱に出家を勧めたという熊谷直実の出家後の名乗りも「蓮生」。 直実が往生した地とされる埼玉県熊谷市の熊谷寺(ゆうこくじ)の山号は「蓮生山」(れんせいざん)なので、直実の場合は「れんせい」と呼ぶらしい。 ただ、関西では直実の「蓮生」も「れんしょう」と呼ぶ事が多いのだとか・・・ |
清巌寺は、頼綱が建てた念仏堂を起源とする寺院。 実信房蓮生法師と刻まれた墓碑がある。 |
歌人としても知られる頼綱。 藤原定家と親交をもっていた関係で、1229年(寛喜元年)、二荒山神社に神宮寺が建てられたときには、藤原定家と藤原家隆が襖を飾る障子歌を贈ったのだという。 |
1227年(嘉禄3年)、比叡山の僧兵による浄土宗への弾圧から法然の遺骸を守るため、東山の法然廟所(知恩院)から嵯峨の二尊院へ遺骨が移された際、頼綱(蓮生)は弟たちや六波羅の武士とともに護衛にあたっている。 翌年、遺骨は粟生野の光明寺に遷されている。 |
1235年(嘉禎元年)、藤原定家が頼綱に贈った色紙が『小倉百人一首』の原型なのだという。 |
宇都宮の石の里にある大谷寺は、弘法大師作と伝わる日本最古の石仏を本尊する寺。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|