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粟生野は、1175年(承安5年)、浄土宗の開祖・法然が初めて「念仏」の教えを説いた地。 その地に、弟子の蓮生(熊谷直実)が建立した念仏三昧院が光明寺の始まり(1198年(建久9年))。 念仏三昧院は法然から与えられた寺号。 |
法然没後の1227年(嘉禄3年)、延暦寺衆徒が法然の墓廟(知恩院)を破壊して、遺骸を加茂川に流そうと計画したことから、弟子たちは遺骸を嵯峨の二尊院に遷し、さらに太秦の西光寺に遷されて石棺に納められた(嘉禄の法難)。 しかし、翌1228年(安貞2年)正月20日、石棺が解き放たれ、光明が南西の粟生野を照らしたことから、十七回忌にあたる同月25日、遺骸を粟生野に遷して荼毘に付したのだという。 以後、念仏三昧院は光明寺に改められたのだと伝えられている。 |
※ | 「嘉禄の法難」は、延暦寺衆徒が浄土宗と専修念仏を弾圧した事件。 |
※ | 東山の法然廟所から嵯峨の二尊院へ遺骨が移された際、直実に出家を勧められたという宇都宮頼綱(蓮生)は、弟たちや六波羅の武士とともに護衛にあたっている。 |
1228年(安貞2年)正月25日、荼毘に付された法然の骨は、青磁の壺に納められて葬られた。 骨が納められた上には、火葬場の灰と土を練り固めて造られた五重塔が安置されている。 |
法然には、500年遠忌の行なわれた1711年(正徳元年)、円光大師の号が勅賜され、以降50年ごとに東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師が勅賜されている。 |
総門 |
御影堂 |
阿弥陀堂 |
観音堂 |
経堂 |
勧化所 |
袈裟掛の松 |
石棺 |
勅使門 |
専門寮 |
鎮守社 |
薬医門 |
閻魔堂 |
東行逆馬 |
昔、淀(現在の京都市伏見区)に水次郎という男が住んでいました。 乱暴者だったことから悪次郎と呼ばれていたのだとか・・・。 さて、その乱暴者の水次郎のところに托鉢僧が訪れるようになります。 腹を立てた水次郎は、托鉢僧の頬に焼火箸をあてて火傷を負わせたのですが・・・ 托鉢僧は声一つ上げることなく黙礼をして去っていきました。 気になった水次郎が後を追うと、托鉢僧は寺の中に入って姿を消してしまいます。 そして、寺のご本尊の釈迦如来の左の頬に火傷の跡があったのだといいます。 托鉢僧がお釈迦さまであったことに気づいた水次郎は、以後、善行を心掛けるようになります。 精進を重ねた水次郎は、人々から弥陀次郎と呼ばれるようになったのだとか。 |
法然が15歳から18歳までの3年間、修行した場所。 |
金戒光明寺 |
知恩院 |
金戒光明寺は直実が出家した寺といわれる。 知恩院は、法然が東山吉水(よしみず)に草庵を結び、専修念仏の布教を行ったのがその始まり。 |
長岡京市粟生西条ノ内26−1 JR「長岡京」駅から阪急バス「20,22系統」 「旭が丘ホーム前」下車。 阪急「長岡天神」駅から阪急バス「22系統」 「旭が丘ホーム前」下車 |
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